こらしめられると

関わりたくない人がいる。

他人の落ち度や失敗に対して「懲らしめる」という考えを持っている人だ。

敵になると恐ろしいし、味方であってもまぁキツイ。

心からそう思うのだけど、そう思うのは自分の中にも、その火種みたいなものがあるからかなぁと、最近感じる。

嫌だと思うこと、嫌いなこと、なりたくないものは、すなわち恐れているということだ。

それらから「怖い、遠ざかりたい」と感じるのは、自分の中にもその要素が含まれているからだ。

そして、どうやら毒というものは共振性を持っているらしく、その毒に触れると自分の中の毒が膨れ上がってしまいそうになる。

インターネットが発達したことで「懲らしめる」ことは手軽になった。
技が無くても誰でも楽しめるようになった。SNSの副産物で「懲らしめ」のシステムが、ますます簡略化されている。

テレビや雑誌、大きなメディアがパスを出しまくる。「さぁこいつを懲らしめろ」と言わんばかりに、次から次へとキラーパスを足元に送ってくる。

目の前にボールが来たら打たざるを得ないストライカーのように、一人、また一人と「懲らしめ」のスパイラルに巻き込まれる。

集団は景気が悪くなったり、情勢が悪くなると、何かを「懲らしめる」そうだ。

むかしは「懲らしめる」はとても手間のかかるものだった。
街頭ビラや演説、学生運動、デモ行進、ストライキなど、ずいぶんと心身のカロリーを使いそうだ。

でもいまは家にいようがカフェにいようが、親指ひとつで爆撃できるようになった。

目の前に行かなくても、身体を駆り出さなくても、自分の正義に反した者を裁けるパラダイスがやってきた。

僕たちは桃太郎やサルカニ合戦などの勧善懲悪の物語を通して、「悪を懲らしめること」のカッコよさを刷り込まれてきた。

彼らのカッコよさは身を呈して「悪を懲らしめた」ところにあったのに、美味しいところだけ味わうようになった。

桃太郎は親指ひとつで爆撃して鬼ヶ島を陥落したわけではないのに、次から次へと日本中の鬼ヶ島が被曝している。

しかし、そもそもなにかを「懲らしめる」ってそんなにカッコいいことなのだろうか。分からないけど、つかれた。

幼い頃から洗脳された美意識に抗うのは楽ではないけど、手放せるものなら手放したい。
自分がやるのもやられるのも、手放せるなら手放したい。

楽ではない。
「懲らしめなくても、相当量の罰は下るのだからほっとけばいい」と言えばそれまでだけど、そんなに甘くないことは知っている。
飛び込んできたニュースの中の悪人を憎たらしく思うのは僕だって同じだから。

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