「争いを仕掛けない」と「売られても買わない」と気を付けておくだけで、かなりの数の破滅を未然に防げる

「争わないこと」の大切さを感じる。実際、争うことが減った。以前に比べると激減した。

これまで争いまくってきた。「自分が正しい」と思ったら、何がなんでも相手をひねり潰そうとしていた。しかしその後に残るのは、ただただ焼け野原だった。

「身を守ること」は必要だし、騙されたりナメられたら命に関わるような不利益をくらうケースもある。「自分に負けないこと」も必要だし、「戦うこと」も必要だ。だけど「争い」は要らない。

「争い」と「身を守る」には大きな差があるのだと思う。
「相手にダメージを与える」という目的で行動するとマズイことばかり起きる。クレームの電話はわざわざ入れない方がきっといいし、クラクションは鳴らさないに限るということだ。

他人を傷つけるとき、どんな人間にも「正当な理由」がある。

「仕事だから」
「自分の尊厳を傷つけられたから」
「大切なひとを傷つけられたから」
「迷惑だったから」
「みんなのため」などなど。

すべての言葉から圧倒的正しさの匂いがする。

だけど、やはり、ひとを傷つけてはいけないのだ。

傷の痛みや義憤の耐え難さは百も承知だが、殴られても殴りかえしてはいけない、気がする。

「は?やられたらやるっしょ、始末するっしょ」というハンムラビライクな倫理を持つ方からすると不快に思うかもしれない。もしも「じゃあ性犯罪者を野放しにしてていいのかよ!」と胸ぐらをつかまれたら言葉もない。

だけどそんな究極の選択の話は、日常生活においてめったに起こらない。ほとんどの場合、「争わない」というのは主義思想というより、技術、テクニックなのだ。

「争いを仕掛けない」と「売られても買わない」と気を付けておくだけで、かなりの数の破滅を未然に防げる。だいたいの物事は「許すまじ」で壊れている。

もちろん「壊れてもかまわん」と思っているのだろう。僕にも「別に壊れてもいいもの」がいくつかある。

だけど今、自分が手にしている大事なものは、最初から大事だったわけではない。次第に、少しずつ、大事になっていったものだ。

誰しも大事なものと大事じゃないものがある。だけど案外、その差はほんのちょっとしたことだったりする。

そして「喪失」には誘発性がある。
大事じゃないものを失くしたとき、大事なものまで失くなっていくことが多い。「相手が悪い!」と思ったときにどう出るか。を意識下に置いてみると身の回り程度だが、世界が変わる。

「ぶっ潰す」以外の選択肢に目をやると、思うより世界は窮屈じゃない気がするのだ。

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