見出し画像

人それぞれじゃなくて答え抜く

「考え方はひとそれぞれだよね」という着地がある。何にせよそれで済ませてしまうと波風が秒殺でむので、非常に使い勝手が良い。

でも、僕たちの人生にはそれでは済まないときがある。対立を解消したり、協力し合ったりするために、何らかの『共通了解』がどうしても必要になる。

そうなったらどこに逃げこめばいいのだろう、と思っていた。学校で教わりたかったが教えてくれない。「みんな違ってみんないい!」という詩を朗読させてはくれるが、そうは生きられない。というより学校は超絶全員を横並びにする機関なので仕方ない。

大人になってからは子どもの頃よりも「ひとそれぞれ」がまかり通りやすくなる。僕たちは違う環境があるし、違うライフプラン、価値観のもとに呼吸をしている。

でも「ひとそれぞれはいいけど、今このテーブルは決着せーへんとあかんのちゃう?とりあえずここの数人が力を合わす方法考えなあかんやろ」というシーンは少なからず存在する。

それぞれの考え方はいいけど、『共通了解』がゼロだと同じ言語、同じルールが存在しなくなる。共に競技を楽しめなくなるし、向かう場所も見えなくなる。

「そもそも手使えば良くない?」と言われたらサッカーは崩壊するし、「そもそもピストル使えば良くない?」と言われたらボクシングは成り立たないし、「そもそも金とかいらなくね?」と言われたら一緒にビジネスはできないし、「そもそも歌わなくて良くない?」と言われたら音楽は演れない。

「ここまでなら、ここにいるだれもが納得できるにちがいない」というラインが必要なのだ。

古代ギリシャ、ローマではアリストテレスやプラトンみたいな哲学者らがそれらを用意してくれた。「そもそも生きなくて良くない?」に対して、共通了解を組み立ててくれた。

忘れがちだが、今の僕たちの暮らしである民主主義はルソーによって築かれた。

「戦争しなくて良くない?」という問いに対して、それまでの思想家らは「いや、やらないとあかんやんw」を繰り返してきた。
「戦争って天災みたいなとこあるし、世の摂理。嫌でもやんなきゃね!」ぐらいのテンションだったのかもしれない。今の令和の世の中で言うと、「いや、でも仕事したくなくても働かないとあかんやん」に相当するのだろうか。

「何で我々は戦争をするのか?」という考えに対して、我々は自由への欲望が尽きないからだという説があった。

僕たちは自由を奪われること我慢ならないから誰かを殺してでも奪いたくなるし、支配されても長期的に見ても支配者に対して戦いを挑む。

それらの考え方を民主主義という考え方で、ルソーはひっくり返してくれた。ようやくついに誰もが自由に生き方を見つけられる社会のあり方が分かってきたのだ。

ルソーは「考え方はひとそれぞれだよね!」に逃げ込まずに超考えたのだろう。「ひとそれぞれだよね!戦争が必要不可欠って言うひともいるし、やめよって言うひともいるもんね!」のままだったら民主主義は訪れていない。

「ひとそれぞれじゃなくて、さらに考え抜いて、答え抜かないといかん」という思考の果てにやってきた答えが今の社会のあり方なのだろう。「自由を目指しつつ殺し合いをしなくてもいいワザを探す分にはいいよね?」という共通了解の上で僕たちはへらへら笑っている。

ルソーほどじゃないけど、少し考えるのは悪くない。すぐに「ひとそれぞれ」で思考停止しなくてももう少しがんばれる余白はあるのだと思う。

この記事が参加している募集

学問への愛を語ろう

音楽を作って歌っています!文章も毎日書きます! サポートしてくれたら嬉しいです! がんばって生きます!