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失敗は理論上皆無

失敗が多い。大きなものから小さなものまで失敗だらけだ。

この季節になって大量の半袖を購入してしまったり、捨てちゃいけないひとの名刺を捨ててしまったせいでコントのように「あの、あれでしたよね。この前、ヤバかったすよね」を三十分ほどやりとりしたり、1200万円詐欺られたりと未だにミスりまくっている。

しかしどれほどの失敗でも、僕は第三者的な、俯瞰的目線で自分を見て笑い飛ばしてしまえるところがある。

極端な話、あまり後悔がない。どうしても他人事に思えてしまうのだ。むしろ自分はじつはミスった経験がないんじゃないかとさえ感じる。

もちろん世の中にミスったことのないひとはいない。客観的に見ると、「こりゃどう見ても失敗だ」ということはある。

続けるつもりだったバンドが解散したことなんて、ひとによっては「失敗」と言えるだろう。

しかし自分という人間の主観からすると、これはミスでも何でもない。

これには僕が「行き当たりばったりの人間」だというのにも関係している。欲がないわけではないが、向上心や計画性というものがまったくと言っていいほどない。

「失敗」が成立するには計画や目標が必要となる。これらを完遂できないから失敗なわけだ。

「金持ちになる」という目的があるのであれば、未達成ならば失敗である。頓挫したとき、初めてミスったと言える。

「失敗」とはくわだてあって成り立つ性質がある。そのあたりが欠落していると「君は失敗したよね」と言われてもピンと来ない。

そうした自分の人生の軌跡を見ると、都度都度で大きな節目がある。何度か人生の分岐点で道を選んできた。

振り返ると最善の道しか選んできていないという自信がある。
というよりそれしか選べなかった。「左に行けば高収入」と分かっていても、当時の僕は右に行くしか手立てがなかったのだ。今回想しても実感できる。

逆立ちしてもターニングポイントは案外、一方通行だったりする。大切な時期に選択肢は案外無い。

「あのときもっと努力していれば」というひとがいるが、そのひとはその時点ではどうもがいても努力することができなかったのだと思うし、だからこそ「しなかった」のだ。

今ある自分は必然的にこうなったこともわかる。

努力することを放棄せよという話ではない。それができるひとは多いに頑張るべきだ。でもできなかったひとも悔やむ必要はない。

付け加えると「がんばる」なんてことは大抵の場合、「知らないうちにそうしている」というケースばかりだ。後で考えると、「何故あのとき、あんなに頑張れたのか、体が動いたのか」と感じてしまう思い出が溶岩のように湧き出てくる。

僕の人生において、「がんばれる時期」がこれからもあるかもしれない。でも過度に期待もしない。一生来なくてもいい。

ちなに音楽や文章においても「失敗作」というものはない。技術的に稚拙であっても誰か一人の胸を打った可能性がある。それが自分しかいないかもしれない。

表現の世界ほど客観的評価に意味はないことが多い。

だからと言って安心したり、油断しているわけではない。自分の目から見ても出来不出来ぐらいは分かる。だけどそれはそのタイミングでは能力の限界だったと思うのだ。

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