自由は冷たくて寒いものだし、束縛はあたたかいが腐臭がする。

「自由」を追い求めて、大人になった。だけど自由は寒い。モコモコした格好ではなく、薄着のようなものだ。

自由に飢えた子どもだった。今でも縛られることが苦手だし、「拘束」に耐えられない。

「興味がないときもジッとしていられないのはADHDだ!言うなれば異常だ」という論調があるけれど、「興味もないのにジッとしていられるのが正常なのか」という感想を抱いてしまう。人間は主観こそ正常だと感じる節があるのだろう。

でも正常と異常が共存することはむずかしくない。

縛ろうとする人間、一方的に振る舞おうとしてくる人間とは程よく距離を置いて付き合っていればいいと思う。大人だ。

距離感を掴むことこそが大人なのではないだろうか。子どもは自分の正常を相手に押しつけてくる。大人でもそういうひとがいるはいるが、やはりそのひとは子どもなのだろう。老けた子どもだ。

心が「大人」に近付くとラクになる。だけど「自由を侵されるとダメ」とインストールされきっているせいか、少しでも崩されると、子どもの頃よりすぐ折れてしまうようになった。大人は打たれ弱い。打たれない技術は身に付いたが簡単に倒れる。

それにしても「自由」とは何だろう。

大人になっても追い求めている。触られるとぶっ倒れてしまうほどに必要であるし、最優先の事項とすら言える。

もはや「自由」というのは決して美しい言葉ではない。自由を求めすぎているせいで、人生が非常に不自由になってもいる。

自由のために耐え忍ばねばならない孤独や心細さに比べると、自分を殺し、「掟、規則、ルール」の持つ不条理に耐える方がはるかに苦痛は少ない。

ただし、そのどちらを選んでも苦しみと安楽さの収支決算は、たいして違わないようにも思える。

自由は冷たくて寒いものだし、束縛はあたたかいが腐臭がする。

どちらを選ぶかは「首吊りがいいですか。飛び降りがいいですか」と問われているようなものであり、完全に詰んでいると言える。自由に生きても鎖に繋がれても結果はあまり変わらない。

だが少なくともその選択は、それらを引き受ける本人によってなされるべきだ。

どっちかを選んでいくことかは、人任せにしない方がいい。たとえば 「野球部の男子は丸刈りにすべし」という規則がある。これは無茶苦茶である。

世界中で丸坊主を強制されるのは、タイの修行僧か、刑務所に服役する男だけだ。

いったい何の権利があって、野球部を丸刈りにするのか。多くの権力者の答えとしては「学生らしさを損なわぬため」というようなものが返ってくる。

これは真意を言いかえれば、自分が丸坊主であることによって 、その子が自分の行動を「学生らしさ」の中に封じ込めてしまうことで、非行を未然に防げる、ということである。

つまり刑務所の丸刈りと同じ論理だ。

この時点で教育者は「教育」という自分のプロフェッショナリズムを放棄し、単なる「看守」に自らを成り下がらせたと言える。

少しでも自由になることを選択した人間として、僕は未だに看守と付き合うのはキツイのだ。

自由がほしいなら、看守の性質を持つ全ての人間と対立する覚悟がいる。これもまた自由を選ぶ寒さの一種だ。自由とは薄着だ。

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