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憂鬱な気持ちで「やる気」について書いてみた

「やる気」なんて造語であり、そのような心理状態は脳科学的にも存在しない。

半分以上自分に言っているが、多くのひとにも当てはまるフレーズがある。

それが「やればいい」だ。

こすられまくった言葉なのは百も承知だが、普遍かつ、唯一かつ、最強の法則と言える。

自分の胸を叩くと、心の表面からも「分かっているけど、それができたら苦労せん」という言葉は聴こえる。

しかし年下と話しても、僕自身の悩みに自問自答しても「やればいい」で決着してしまうことが多いのだ。

「じゃあ辞めれば?」
「じゃあ別れれば?」
「じゃあ稼げば?」
「じゃあ自己破産すれば?」
「じゃあ死ねば?」

他人の相談ならば、もちろんこんな突っぱねたりはしないが、酔っ払って自分自身と膝を突き合わすと十五年前からいつもこの答えにたどり着く。よくまだ生きているものだと思う。

悩んだり、議論したり、文句を言ったり、躊躇したり、できない理由を考えるよりも「つべこべ言わずにやる」というほうが大きな破壊力を持つ。

僕自身に言い聞かせたいところだが、「やらないやつ」の言い訳スタンダードは「やる気になれないんすよ…」だ。しかし「やる気」というものは存在しない。

朝起きたら、歯を磨いたり、食事をしたり、呼吸をすること、これらはすべて「やる気があってしていること」ではないと思う。
僕は「吸うぜ!そして吐くぜ!」などと呼吸に気合いを入れている人物に未だかつて出会ったことがない。

人間の脳には側坐核と呼ばれる細胞集団がある。

ここがいわゆる「やる気」のスイッチになっているのだが、「やり始めたら、なんだかんだ気分が乗ってきて続けてしまう」という経験がないだろうか。

側坐核と「やる気」の因果関係は、初動にある。「やり始める」というアクションにより活性化されるのだ。

「やる気が出た」という状態はコレを錯覚しているだけであって、「やり始めたらノッてきた」は再現性のある法則にあたる。

つまり「やる気」という言葉自体、やる気のない状態の人々が作り出した虚構、フェイクニュースと言ってもいい。

モチベーションを語る先人の虚言には、他にも「気持ちを大切にしたい」などというものがある。
これはフラットに考えると訳の分からない言葉だし、綺麗に物事を隠してしまう卑劣さも感じる。

「気持ち」とはいったい何だろう。
「気持ちを大切にする」ってどういう意味なのだろう。改めて文字に起こすと、まったくイメージできない。

「気持ちを大切にしたいのよ」と意気込んだところで、大体が自分の気持ちなど分からない。

「あいつブチ殺したい」
「会社辞めたい」
「死にたい」
「金メダルかじったオッサン殴りたい」

こんな風に思っていた翌日に、バラエティを見てヘラヘラ笑っていたりする。笑顔など見せられないような憤怒に包まれていた自分は、はたしてどこに行ったのか。

気持ちなんて、そのぐらい秋の空レベルに移り変わる。今日の自分とあしたの自分は違う考え方、物事の捉え方をしている。それが通常だし、脳はそういうつくりになっている。

昨日、小田急で通り魔が暴れていた。

僕はそのニュースを聞いて「哀れだ」と思った。

しかし犯人が同じ車両にいたらどうだろう。

「怖い」と思ったかもしれない。『はじめの一歩』や『刃牙』を読んだ直後なら、「左でリバーを叩いてからテンプルに右!」と好戦的になったかもしれない。アフリカに住んでいたら「へー。あっそ。ニッポンあぶね」かもしれない。

電車という閉鎖空間で起きた無差別事件は、間違いなくセンセーショナルな出来事だった。

それでも観測者のコメントは時と場合によって変わる。「気持ち」はそれぐらい一定しない。そんな不安定なものに自分の行動を任せていたら、いつまで経っても始められない。

「私の気持ちも考えなさいよ!」と言われたことがたくさんあるが、自分の気持ちすら分からないのに、他人の気持ちなんて分かるはずがない。

睡眠時間、アルコールの摂取量、運動の総量、諸々で脳内ホルモンの分泌量は変動し、幸福度は上下する。それが通常だ。

ボヤッとする。ムカつく。なんか調子いい。

調子はコロコロ変わるし、「気持ち」なんて、漠然とした霧のようなものではないだろうか。

そんなはっきりしない「気持ち」に対して、やる気があるのか、やる気が無いのか、などと白黒つけさせる方がナンセンスだ。

やっているうちにやる気なんてわいてくる。わいてこないならこないで別にいい。やる気がなくてもやればいい。

元気MAXでもやりたくないときはあるし、風邪でもやりたいときはある。

どんどん変化して、白黒の濃度もグラデーションになっているのが「気持ち」だ。そんなフラフラしたものに支配されていたら、人間はほとんど行動できなくなる。

「気持ちの通り動こう」なんて生き方はトチ狂っているのだ。

身動き取れないほどの重体でもないなら、やはり「いっぺんやってみれば?」と自分に言い聞かすのが一番良い。驚くほどに大抵のことはやれる。「やる気があるかないか」なんて議論よりも、毎日馬鹿の一つ覚えみたいに、重たい腰を上げとけばいい。

ちなみに僕は今チリ一つ持ち上げられないような憂鬱の中、「気持ち」を小脇に抱えてこの文章を書いている。書くだけならタダだ。




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