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自分より軍事力の劣る誰かを傷付けてはいけない理由

5年ほど前、成城学園前の寺で坐禅を組んでいた。

あの年はオーストラリアに旅に出たり、筋トレに目覚めたり、断酒したりと僕は闇雲にもがいていた。「なんかよく分かんないけど、能力を開発しないとヤバい」というセンサーが働いていた。

今振り返ると100の力を150にするよりも、『ふだんから80ぐらいのパフォーマンスを発揮できる術』を探せば良かった。いくらMAXパワーが150になっても、心的疲労で50しか出せないのであれば何の意味もない。

そんな中、比較的効果が高かったのは禅寺だった。坐禅が終わった後に「坊さんのありがたいお話」のコーナーがあるのだが、これがなかなかに聞き応えがある。

坊さんはよく「フェアであれ」と言っていた。そのせいで未だに「フェアかな俺」と自問自答するクセがついた。

「正しいことをやれ」とか「人一倍努力し、研磨せよ」とか「売れろ」とか「失敗を恐れるな」とかの立派なフレーズはもう聞き飽きていたのもある。
特にメジャーデビューしたばかりで、そこの醜く太った老人からはそういう類いのことばかり言われていたせいだ。日々吐き気が止まらなかった。

その老人は結局、美人シンガーやアイドルをスカウトしては、全員に求婚するという爬虫類的なネバネバ野郎だった。従わなければ、その娘たちの待遇が悪くなるという、まったくフェアでない人物だった。

その反発心と潔癖性から、「立派なアクション」を要求されることに僕はアレルギーが出まくっていた。
そんな最中、坊さんの説く「できるだけフェアでいろ」という教えは腑に落ちた。

「誰かを非難してもいいし、不正してもいい。出し抜いてもかまわない。時には暴力だって使っていい。でもなるべくフェアでいなさい」という話だった。

極端な例だったが、あの価値観は後天的に発症したアレルギーをおだやかに鎮めてくれた。

相手に非難するフィールドを与え、不正する環境の中で、出走タイミングは自由に設計し、互いに素手でやりあう。

いつもこういうわけにはいかないし、きっちり測ったようにはいかないが、意識しておくだけで違う。

「アンフェアな攻撃を受けたときはアンフェアにやり返していいのだ」という危険な強さが自分に生まれたからだ。あれ依頼、僕はやられっぱなしになることが減った。喧嘩が上手くなったとも言える。

揉め事が好きなわけでもないが、恐怖心は減った。ビビらなくなったので結果として、上の立場のひとに怯えずに話せるようになった。
「もしもマウントを取られたら取り返すし、尊重されなければ限界まで侮蔑する。屈辱を与えられたら、踏みにじり返す」という構えを心の奥底に抱えてひとと接している。

文章にすると我ながらヤバすぎるし、実際にはそのような事態にはならない。だけどその刀を懐に忍ばせておくことが大切なのだと思う。だからこそ、しっかりと付き合えるし仲良くもやれる。

「ナメてたら殺すぞ」というわけではないが、対立したら「フェアさ」への警戒心は解かない。これはいいかげんにしないで、しっかりと相手に向き合う姿勢だ。それを僕はリスペクトと呼びたい。

反対に腕力で劣る女性に手を上げてはいけないし、弁論に差があるひとを論破もしてはならない。自分より軍事力の劣る誰かを傷付けてはいけないのだ。

そういう意味では、人間関係は格闘技の要素があるのだと思う。

ストリートファイトや戦争ではなく、同じ条件で組み合う必要がある。だからファウルもあるし、互いによるが、レフェリングもいる。もちろんギブアップしたっていいのだ。

「めんどうな人間」と言われがちだが、たぶんそれでいい。それを通したまま生きて死んでいくほど貴いことはない。

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