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疑似出世のすすめ

「書いた小説が書籍化されて、映画化も決定」

そんなアホみたいな大きさのプロジェクトが動いている。今日は渋谷クアトロでKEYTALKとcinema staffが本人役で演奏してくれたので、見物に行っていた。

小説はもはや書き終えているので、別に僕はやることがない。顔もあんまり知られていない。

今日も現場に入るときに「関係者以外出入り禁止なんで!」と大きめの声で言われた(「ええと…あのぅ…このお話を作ったんだけど…」とつぶやいたら入れてもらえた)

作ったものの規模が膨らんで、飛距離を増して見知らぬひとまで届くというのは嬉しい。

表現を仕事にしていると、こういう『擬似出世』がたまにある。僕がここで調子に乗れるぐらいの性格だったら、人生楽しいのだろうが、兼ね備えていない。

「もうちょい面白く書けたんじゃないかなぁ」などと、ケチくさくビビりくさっている。

でもこんなことは毎度のことだ。〆切のタイミングでベストだと思ったものが最高なのだ。「できたものが作りたかったもの」という理屈で音楽は作ってきた。

書き物になった途端、執着が出たり不安になるのは変な話だ。

たしかに書き終えた〆切段階より、今のほうがテクニックはある。だけど人生はいつも間に合わない。二十四歳のとき発売したアルバムを再録すれば、もっと上手く弾けるのは当然だが、何の意味もない。

誰しも「今の知能で小学生に戻りたい」という江戸川コナン現象に憧れた経験があると思うけど、成績が良くなるかは分からないし、モテる保証もない。

ドラえもんに『人生やりなおし機』というひみつ道具がある。のび太が四年生なのに、そのまま四歳になるという話だ。結末はとにかく不幸になる。

人生は巻き戻せないし、それぐらい不便だから笑えるし泣ける。「あそこからやりなおせる」というセーブシステムがあったら、「エモさ」という形容詞なんてこの世から姿を消してしまう。

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5月の3日は誕生日だった。
「自分は何になりたかったのだろうか」と振り返る年齢になった。もうなりたかったものに、なっていなくてはいけない年なのだ。

今から道を変えられないし、変えるとなると面倒だとも思う。かと言って『人生やりなおし機』を使いたいほど、過去への固執もない。

結論として、僕は何者かよく分からない人間になってしまった。

ロックを碇にして、帰る港はちゃんとあるのだが、ずいぶん沖まで流された。水平線が360°広がる大海原に浮かびながら、このnoteを書いている。

「もっと客詰め込んで、密なライブしたいなぁ」は本音だが、今の世も今の世で救いもある。事実ライブがやりたいようにできないせいで本を書けた。

僕が「音楽しかやらんぞ!」という一本気なやつだったら、話も書けていないし、このコロナ禍に絶望してもいただろう。

「ミュージシャン」みたいな具体的職業名なんて自分を不自由にするだけだ。

「ミュージシャンになりたい!」
「お笑い芸人になりたい!」
「YouTuberになりたい!」

これらは初動の動機としては最高なんだけど、目的地が具体的すぎると、レールから外れたときに困ってしまう。

「ミュージシャン!」という目標だけだったら僕は今音楽をやれていない。

音楽をやらせてもらっているのは、諸々他の要素が利いている。もちろん音楽的素養がザコすぎたら誰にも相手をされていないけど、音楽屋だけで生き残れるほど凄まじくもない。

本が7月に出る。4月には映画になる。KEYTALK、cinema staff、まだ言えないけど、他にも10以上のバンドが力を貸してくれた。

「書く」という行為の破壊力をひしひし感じる。

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KEYTALKが武道館をやった2015年10月。
僕は道玄坂のガードレールをソファにして、新歓コンパ並に泥酔していた。独りぼっちの新歓だった。

本当は祝杯のつもりだったし、仲間の成功を喜ぶ気持ちに嘘はなかった。だけど飲みに飲んで、ブッ潰れていた。
飲めば飲むほど近視になり、近くの物しか見えなくなった。コンクリートのでこぼこ、走るネズミ、果てた吸い殻。

近視はみるみるひどくなり、自分のみじめさと無力さと悔しさしか見えなくなって泣いていた。
僕はあのダサさに運ばれて2021年までやってきた。

あの日の自分に言ってやりたい。

そのガードレールの先はクアトロにまで延びているぞ、と。
今のお前の気持ちが始末できるかは知らんけど、死ななければ、生きてさえいれば、今日のKEYTALKとcinema staffと笑えるぞ、と。


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