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白黒つけず生きていく

二元論マン

すぐに白黒つけるひとがいる。
善か悪か、ホントかウソか、勝ちか負けか。

人間は頭が良い生き物なのでショートカットした答えが大好きだ。

でも二元論の明快さの誘惑に負けてばかりいると本当のことを見失ってしまう。現実における「本当のこと」は白か黒ではなく、少なからず灰色を帯びているからだ。

何かをきれいサッパリ解析しようとしてもそうはいかない。物事はいつだってグラデーションだ。人間同士の気持ちが絡んだりすれば、よりいっそう白黒な色味を行き来することになる。

ただ「二元論に取り憑かれた性格」というやつは、死ぬまで治らないのかもしれないとも最近思う。

正解か不正解か以外の着地が許せないというのは、そのひとが持って生まれた気質だし、反対に混沌を混沌として受け入れられるのは、ある種の能力でもある。

でも二元論は明朗であればあるほど、大切なものを取りこぼしてしまう。「白なんか黒なんか!?」とそんなことばかり言っていたら、ウザすぎて諸々すり抜けていく。

僕たちジャパニーズなど、戦時中は「おどれアメ公!この鬼畜米兵が!」と罵っていたのに、今や西洋人は憧れの的だ。実際。アメ公たちの実相になんら変化は無い。

二元論者は「物質」にまで良い,悪いを付けたがる。善玉コレステロール、悪玉コレステロールといった名付け方も今思うと思想が激しい。これは人間の勝手な解釈であって、もちろん物や現象に良いも悪いもない。

人間のストレス反応などは悪玉の代表格のように言われるが、ストレス自体は人間に必要なものだ。たとえば塩分なども元凶のように忌み嫌われるが、塩が無ければひとは死ぬ。熱も上がるとマズイけど無けばちゃんと死ぬは死ぬ。

物には善も悪もない。それに対する人間の態度、過剰な反応に「悪」というものが生まれるだけだ。

酒やドラッグに対する感情がまさにそうだ。

問題は酒ではなく、ひとの方にある

酒に対しては、人間は長い歴史的関わりを持っているから、比較的正しい認識を持っている。そのおかげで酒そのものを「善だ悪だ」と言うひとはあまりいない。
「百薬の長」にするか「キチガイ水」にするかはそいつ次第だと考えているひとがほとんどなので良い見解と言える。芸能人がアルコールトラブルを起こしたとき、世間一般の認識も『問題は酒ではなく、ひとの方にある』というものがほとんどだ。

ところが『ドラッグ』に関しては「鬼畜米兵!」と呼んでいた頃からあまり進化していない。

被害者がいないのに犯罪になる

ドラッグの立ち位置は不思議だ。国家総出で「ダメゼッタイ」に設定している。
やりすぎたら使用者の人生、将来、健康が壊れるだけなのに、司法としての刑罰が用意されている。

「やりすぎたらダメゼッタイ」なもので言えば、宗教や仕事、ロックバンドなんかも同じはずだ。すべて度が過ぎれば、やりすぎれば人生、将来、健康が破壊される。

よく「おそるべき麻薬に溺れた彼は廃人になってしまい・・・」などという表現がある。恐怖洗脳に近い方法だ。
「人間やめますか?」といったキャッチコピーもただの「物質」であるドラッグに、善悪の概念を背負わせるという幼稚性を感じる。
もちろん問題はドラッグの方にはない。人間の方にある。この関係はやはり酒、コーヒー、タバコ、塩、ストレス、筋トレ、ライブ通いなどと何も違わない。
あらゆる人間の受け入れるもの、それに対する態度、ハマり方、この構図とまったく同種なのだ。

適量ならクスリになるが、やりすぎると毒になる。ときには死に至る。

構図は同種なはずなのだが、決定的に事実を歪曲している原因は、「個人の領域の問題」を国家が禁止しているせいだ。

自分の健康以外、何物にも害を及ぼしていない不思議な「犯罪者」を大量生産している。清原和博や槇原敬之がまさにそれだ。

白黒付けないでボンヤリと宙ぶらりんにできないものだろうか、と思わないことはない。

今の「緊急事態宣言中なのに、日常生活に支障ナシ」というこの灰色な感覚が僕は嫌いではない。

「緊急事態でもなんでもないじゃん!」と白黒土俵に持っていこうとする声も多いが、世界はしばらく灰色のままなのだろう。

先日、フグの肝を食べた。

トラフグの猛毒テトロドトキシンは卵巣、肝臓に集中している。毒性は青酸カリの850倍だと言われている。

ただ、それは天然フグに限る。毒性のプランクトンを食べることでフグの毒は生成される。
無毒なエサのみで育てた養殖フグは安全なので、問題なく食せる。

というのが最新テクノロジーの話だが、『法』はまだ追い付いていない。食品衛生法的には違法である。改めて白黒の狭間に位置するものが好きだ。

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