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なんでもできる!というわけではない

タウンワークみたいな求人誌が大好きである。ファミレスとかに置いていると、読んでしまう。よく分からない漫画雑誌なんかよりもよほど面白い。

目を通しているとどの仕事も楽しそうでやりたくなる。働きたくなるような広告にしているのだから当然だけど、素晴らしい仕事ばかりに見える。働くことは生きることなので、世の中は夢と希望に溢れているように感じる。

でも「ここにあるほとんどの職場で通用しないのだろうなぁ」とも思う。働く能力が低すぎる自分のことをそれぐらいに分かっている。ほんのり死にたくなる。

「いくつになっても何かを始めるのに遅いなんてことは無い」という言葉がある。そりゃそうなのだが、それは机上の空論だ。

二足歩行の同種族がうごめく「社会」というサバンナで、ある程度揉みくちゃにされて生きてきたやつなら分かるだろう。

やっぱり人間には、できることとできないことがあるのだ。

というより「始めるか」と前向きに思えることもあれば、「無理に決まってる」と諦めてしまうこともあるという話だ。

例えば僕は「バンドをやってきたやつ」だ。似たようなことや表現を仕事にすることはいくつになっても始められる。本を出したり映画を手伝ったりは、この二十代の頃からしたら想像もできなかった。「ステージに立つ」という類似点だけで言えば芸人だって目指せるかもしれない。

でも何かしらの正社員になって働くというのは無理だ。

ほとんどのひとにとって、後者の方が簡単だと思う。

だけどこんなのはひとによるのだ。

もちろんまったく初めてのことに挑戦するのだってできる。でもやらないし、できない。結局その年齢までやりたいと思えなかったぐらいのものだからだ。自分にとって魅力が無いのだ。いつかやりたい!と思ってることなら、とうの昔にもうやっている。

そして人生が後半になっていくにつれ、だんだん「たぶんできる」と「たぶんできない」が選定されてくる。これまで何に魅了され、何に魅了されなかったかを細胞が記憶しているからだ。

そしてできあがるのが「自分」だ。個性とか言ったらそれまでなのだが、やはりそうだと思うのだ。年月がオリジナリティを作る。


反対に生まれたばかりの赤子はほぼ無個性だし、オリジナリティのカケラも無い。

哲学もないし、信じるものもない。積み重ねてきたこともない。つまり赤ん坊ほど中身の無い空っぽの人間はいないと言える。

やつらは酒もコーヒーも飲めないし、ハチミツとかで死んだりするらしい。殴り合っても恐らく僕が勝つだろう。あっちが日本刀持ってて、こっちが素手でも完封できる自信がある。
現段階では彼らは語り合う価値のない人物であるし、欲望のまま泣きわめく獣だ。そんな未成熟な生物は同じ人間と到底思えない。

しかしその赤ん坊が10年20年とあちこちで揉まれて、面白いやつになっていく。

人間はある程度は年月に比例して個性的に、面白くなっていく。時間はひとを化けさせる。

できることが増えて、できないことも増えていく。個性は絞られ、狭くなり、「飲食店で働く」とかを諦めだす。

元・赤ん坊として思うのは、もう赤ん坊に戻りたくはないということだ。

やりあえば撲殺されてしまうし、やりたいこともできないし、信じるものも祈るものも無い。

「若い時はなんでもできる」と言うが、若すぎると何もできないのだからじつに難しい。

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