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何でもかんでも「わかるー」と言う

「わかるー」と言う後輩がいる。何でもかんでも「わかるー」と言うのだ。その理由としてはモテるからクセになってしまったらしい。

「知らない他人と電話できるSNSがあるんすよ!」と彼は言っていた。テレクラとは違うらしいが、とにかく知らない誰かと話せる、そんなサービスがあるそうだ。そこで女性と出会いまくっているらしい。

そんなにモテるタイプではなかったのだが、聞くところによると、「わかるー」と言いまくればとにかくモテるそうだ。

大抵の通話相手には悩みがあるらしく、それに対して「わかるー、つらいよね」と同調、共感するのだ。すると瞬く間にモテるという。
「拓郎さん、いいですか?絶対に否定しちゃダメです。とにかくわかることが大事です」と言っていた。
「いや。俺はそれやらんからいらんけども」と思ったが、面倒なので「わかった」と言っておいた。

しかし正直、わからない。
同意しているという意味の「わかる」なのか「理解している」という意味合いの「わかる」なのかすらわからない。

そりゃ生きていると「わかるわかる」となる時間も多い。僕だって酔っ払うと、うなずき合うほどにわかり合うこともある。「なんて嬉しいんだ」と思う。

だけど詳しく掘り返すと、その話は全然違う前提に立っていたりするときもあるし、じつはまったくわかっていなかったこともある。これは一気に寂しくなる。

もちろん世界をわかったような気になって、めでたさが心を包む日もある。しかし翌日には世界のわからなさにやられてしまう。この意味不明さは果てしなく、絶望感すら覚える。一生何の手応えもなく、人生が進む気がする。

他にも「わからなく」なるときがある。集団だ。
コミュニティの中で他のみんなはわかり合っていて、自分一人だけが取り越されたと感じる。
もちろんそんなことはない。
僕一人だけではなく、全員がわかり合っていない。
誰も馴染めていないし、「俺だけ」が人間の数だけあるし、「わかるわかる」と言いながらも検算やダブルチェックは存在しないので、「じゃあ何がわかったか言ってみろ」などと言えばたぶんわかっていないことがわかる。だけどそんな「本当にわかったかの確認」なんてものは必要もない。

世の中、「わからない」よりも「わかる」のほうが多い。

大体の喫茶店のテーブルではわかり合っている。

「わからんわからん」と言い合っている席はあまり見かけない。わかるからだろうか、と考えると、反対だ。それはわからないからだ。だから「わかる」としか言えない。せめて口先だけでもわかっていないと僕たちは寂しくてたまらなくなる。

その寂しさにすら気付く素振りがないひともいる。

「俺わかってるから」と堂々と言えるのは羨ましくもある。もちろん話していると倦怠感を覚えるし、ちゃんと絶望もする。
「俺はわかっている」と強すぎる言葉を使うひとは、人生の主体が自分ではなく、何か大いなるものに奪われている感じがする。稼ぎ方がわかっていても、歩き方がわかっていても、それはまだ答えでも何でもない。

こういう話を読んで、あなたは「わかる」と感じただろうか。それとも「何書いてるかよくわからん」と感じただろうか。

感じ方はどちらにせよ、僕は「わかる」とおいそれと言えない。人間は互いにわかり合うことができないようにできていると思っている。そしてそのことをわかっている。僕もまた「俺わかってるから」と言ってしまうのだ。

もちろん「わかってないなぁ」と思われる。やっぱりわかり合えない。そのわかり合えない事実だけはわかっている。この真実が僕とどこかの誰かを弱く紐づけている。


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