見出し画像

人間の「身の丈」は服のサイズ感と同じ

「荷が重い」と感じる日が増えた。たぶんあなたも感じているだろう。

こう書くと重たいし、人生末期っぽいがそんなヘヴィなことを言うつもりはない。そんな日もある、というだけだ。生きてりゃそうなっていく。

僕たちの年齢はかさんでいく。足し算一方で一切引かれることはない。
当たり前だが「人間をやっていく」という経験は質の良し悪し関係なく、ひたすら増していくのだ。

しかしキャリアの増減と実力の強弱は、そこそこ無関係だ。僕は長生きしているが馬鹿のままだし、世の中にはビックリ天才少年だっている。

「身の丈」という言葉がある。これを見失うとおかしくなる。馬鹿には馬鹿なりの着丈があるのだ。

馬鹿馬鹿と連打したが、卑屈な意味合いではなく、言葉の意味通りに「丈」だ。つまり縮尺だし、サイズ感だ。

例えばパンクソングはやはり2,3分に限るだろう。

オーケストラのように30分近くずっと同じ曲が続くパンクバンドがいたら外に放り出してやりたくなる。

一人前の食事は並盛りだし、人間が眠る布団に100平米は必要ないし、自家用車にバスやトラックを買うやつはいないのと同様だ。

広げすぎると大概の物事はまかり通らなくなる。

自分という人間の性質、体質にちょうどいいものがある。みんなそれぞれにあるはずだ。

僕はモノを作ったり発表したりするとき、「盛りまくる」というのがどうにも好きじゃない。より分かりやすくデコったり、盛りつけたりするのは楽しいのだが、料理に対して大きすぎる皿は見ていて鳥肌が立つ。

他にも色々ある。

何かを作るとき、アレコレ同時にやったりできないし、他人に楽曲を提供する仕事もいくつかやったが、なんとなく合わない。

作品には何かを投影したものと、そうでないものがある。どちらの優劣はないが、作家の「丈」はあると思う。

僕の場合、どこかしらに投影があるほうが仕事はやりやすい。「ひとに提供」というのはなかなかしっくり来なかった。

「荷が重い」の話だ。

「背中が重てーよ!」というときは何かしらサイズ違いであることが多い。

日常に一つ二つキャパオーバーしている案件を抱えていたりするのだ。間違えた着こなしのまま過ごしているとも言える。たまに全身鏡を見たほうがいい。

でも、鏡を見たとき、「え…俺、全身イカれてんじゃん」なんてひとはあまりいない。

たぶん靴下やシルエットぐらいの話だったりする。

そもそも全身おかしい状態なんてことにはなりようがないのだ。

あなたも「荷が重い」という倦怠感を覚えたことがあると思う。今年は多かったんじゃないだろうか。

その理由は大した話ではない。

背中の筋肉が弱体化したわけでもなく、気持ちが死んでいるからでもなく、とにかく寒いからだったりする。それか変な色の靴紐がほどけているぐらいだ。

気温が下がると人生は重たくなる。靴紐がレインボーだと頭は痛くなる。葛根湯をオーバードーズするといい。おだやかに効く。

音楽を作って歌っています!文章も毎日書きます! サポートしてくれたら嬉しいです! がんばって生きます!