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カルト的禅寺へ行った時の話

「どうしようもない禅寺」と呼んでいる寺がある。数年前、僕はその禅寺で禅を組んでいた。

足を組んで「喝!」とぶっ叩かれるイメージがあるけど、じつはそんなことない。叩いてほしいときは挙手制だし、和尚おしょうが大声を出すこともない。

やり始めたのは苦痛が多かったからだ。悟ると救われるという伝説を聞いたので、やり始めた。
それに雑念を振り払いたかったし、健康になりたかったし、強くなりたかったし、いいバンドになりたかったからだ。今思うと欲の塊である。
まぁとにかく「何か変われ!」とワラをも掴む心境だったのだ。

禅は毎回ワンセット40分ほど組む。

やってみるとわかるが、座っているだけというのは結構キツイ。足も痛いし、退屈だし、雑念も浮かびまくる。なんかそんなときに限って、エロいこととかも考える。

40分間、何もなく薄めで座っているだけだ。永遠にも感じる長さだが、時の流れが分からなくなり、時間になると「ボキョ〜ン」と鐘っぽい音が鳴る。
和尚が「はい、お前らおわりー」みたいな合図をしてくれるので、我々ZAZEN BOYSたちは「うわー!」と言いながら痺れた足を延ばす。

ベテランらしきおっさんの「別にこんなん平気やしな」といった謎のマウント、老人の「あぁ悟った悟った」みたいなサウナかなんかと勘違いしてるようなつぶやき、親にむりやり連れて来られた子どもの泣き声なんかが畳の上に舞う。

多種多様なメンバーがいたが、基本全員雑念&煩悩だらけだった。

その後、僕たちは捕虜のように別室に移動させられる。おっさんも老人も子どもも僕もグダグダ歩く。

どこへ向かうのかと言うと、じつは禅の後にもう一イベントあるのだ。「お茶会」と呼ばれるならわしで、僕はこれを「魔のお茶会」と勝手に呼んでいた。

内容は「カントリーマアムを食べながら先輩たちの話を聞くだけ」という猟奇的なものだ。何故、「魔のお茶会」かと言うと、この先輩たちの話が絶望的につまらないのだ。

別に「笑い」という概念じゃなくていいのだが、とにかく面白くない。オチもヤマもない話しかない。それが延々と続く。

その日はZAZEN歴の長い三人の先輩が一人一本話すスリーマン形式。全員バチクソのおっさんだ。

Aさんの「上野に行った。電車で乗った」
Bさんの「最近、足が痛くない」
そしてCさんの「本日晴れ」

の三本立てがその日のラインナップだった。一人一本15分ぐらいある。これはかなり重たい。

延々とクレイジーなメンバーによるMCが続く。

信じられないかもしれないが、Cさんなんかは本当に「晴れている」という情報だけを15分ほどかけて話す。もう、仏教なのにバキバキのカルト洗脳風景みたいだった。

繰り返される宇宙レベルのつまらなさに目がチカチカして意識が飛びそうになる、本当にヤバイ話を聞いている感じがした。「こんなに晴れてて気持ちいい」と8回ぐらい言われると狂いそうになる。

重要なのは死ぬほど長い15分×3本が終わってからだ。ラストの四本目を務めるのは和尚だ。

この和尚だけが救いだった。そう、かなり面白いのだ、和尚の話は。

今日は、あの日和尚が話した「どうしようもないこと」の話を紹介したい。

和尚は小さいがよく通る声を宙空にぶつけた。

「全力をつくして、精一杯力を振り絞る」
これは素晴らしい心構えです。そして、とても大切な心得です。
しかし私たちは知っておかないといけないことがあります。
それは世の中には「どうしようもないこと」があるという真理です。
全力で生きていると、困難に挑み、「何としてでもどうにかしたい!しなければならない!」と考えがちになりませんか?
ですが、「どうしようもないこと」はどうにもなりません。
世の中には全力を尽くしても、命を捧げてもひっくり返らないことがあります。
私たちの命ひとつとっても、どうにもならないことだらけでしょう。
自分の心臓の鼓動を自分で止められますか?
心臓は勝手に動いていて、自分の意思ではどうすることもできません。
つまり命そのものでさえ、自分の手が及ばないもの、どうにもならない力で成り立っているのです。
自らの命という原点でさえ、どうにもできないことに気がついたなら、「どうにもならないこと」が世に溢れているのも不思議ではありません。
すると「それをどうにかする必要などない」という話はスッと腑に落ちませんか?
自分ではどうにもならないことは、そのまま、あるがままに受け取っておけばいいのです。

いくら健康に気を付けていても、病気になることはあります。
悔やんだところで病気になったという事実は覆りません。
それどころか悔やめば悔やむほど、気持ちは沈み、症状は悪化するでしょう。
病気とは「気を病む」と書きます。心の在り方は強い影響を及ぼします。
重たい怪我にみまわれたときに「もう前のように自由に身体を動かせないんだ……」と嘆いても身体の機能は蘇らないのです。

どちらにしても、どうしようもありません。受け入れる以外の方策は無いのですから。
じたばたしようが、しまいがそれしか無いのです。ならばあっさり受け入れませんか?

自分ではどうにもならないことを受け入れたら、その状態と共存できます。そのままの自分が受け入れられたなら「いまできること」に向き合えるようになります。
大切なのは過去よりも未来よりも「いま、ここ」です。
「どうにもならないこと」にとらわれなくなれば、「どうにかなること」に前向きな心で取り組めるようになるのです。


心を向けるべくは「どうにかなること」の方です。

と和尚は締めくくり、数秒の静寂が流れた。

ひとつパチッと火花のような音が鳴る。またひとつ鳴る。音の感覚が狭くなり、すぐに爆裂音は連結した。心の底からのスタンディングオベーション。

感激したZAZENたちによる、アカデミー賞ばりの拍手の乱れ打ちが境内に鳴り響く。季節外れの花火が、変な寺の変なひとたちにより打ち上げられる。カルトだ。

若者もおっさんも老人も子どももひたすら手を叩く。僕も負けじと両手の皮が弾け飛ぶほどに衝突させる。ゲームセンターのエアホッケーのようなやかましさで耳が潰れそうになる。

「これほどの和尚の弟子なのに、こいつらなんで何も学んでねーんだ!」と思ったりもする。感動で頭がおかしくなって涙が出た。

大聖堂の残響のようにスタンディングオベーションが鳴り止まない。みんなカルトまっしぐらにサルのように手を叩いた。

もう誰にも止められない、先輩たちの話も止められない。もうどうしようもないことばかりだった。どうしようもないことはどうしようもない。

僕たちができることはそう多くない。だけど少ないそれらを必死に抱きしめて生きるのだ。そういう歌を書こうと思った。どうしようもないのだから。

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