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メモ:西田幾多郎の哲学・思想変遷

最近、西田幾多郎に関する本をいくつか読んだので、その中で学んだ西田の哲学・思想に関する用語の変遷についてメモ的に残しておこうと思う。

「純粋経験」

認識する主体と認識される客体とがいまだ分離していない経験のこと。直接的な経験。主客未分の意識の直接的な状態。西田は、このような純粋経験をもっとも具体的な実在と考え、現実にあるものをこの純粋経験の発展の諸形態として説明しようとした。
しかし、純粋経験はけっして反省によってとらえられない「現在」のものでありながら、それを認識するためにはどうしてもそれを思惟の対象として反省しなければならないという矛盾があった。そのような問題を解決するために、反省によらない認識、対象認識ではないような認識、反省が同時に直覚であるような認識として考えられたのが次の「自覚」である。

「自覚」

経験(直観)と反省の共通の根源ないし基礎として考えられる働きのこと。
直観とは時間的な流れそのものに従うようなものの捉え方であり、反省とはその経験を空間的に把握し直すことである。しかしながらそうした捉え直しもまた、流れの内部にしかありえない。流れの無限の中に位置しながら、その無限の差異を限定していく。そういった自覚の根本的性格を西田は「自己の中に自己を映す」と表現した。
自覚においては、自己を直観することが自己を反省することであり、自己を反省することが自己を直観することである。こうして自覚において直観が反省を生み、また反省が新たな直観となって無限に発展していく。このように自覚の働きは自己の内に無限に自己を映す働きとして考えられる。

「場所」

一切の作用や存在を自己の内において成立させ、またそれらを自己自身の内に映してみるもののこと。ここでは作用するもの、働くもの(純粋経験・自覚)を実在と考える立場から、そのような働くものを自己の内に映して、これを見るもの(場所)を実在と考える立場への考えの転換がみられる。すなわち、世界とその中にある自己とを、自己(個体)の側から説明していこうとする立場から、世界(普遍)の側から説明していこうとする立場への転換である。
西田は「場所」を大きく三層に分けて考えている。それは「有の場所」(物理的世界)と「意識の野」(相対無の場所)と「絶対無の場所」の三つである。「有の場所」とは物と物とが関係する私たちが自然界とか現象界と呼んでいるものにあたるだろう。「意識の野」とは意識とその対象が関係する「有の場所」に対して「対立的無の場所」ともいえる、意識とその対象を自己の内に内包する場所のことである。そして「絶対無の場所」とはこのような「意識の野」が無限に拡大していったその極限に、自らは無にして、しかも一切のものを自己自身の影として自己の内に映す、有無の対立を超越した絶対的な意味での無の場所のことである。三つの場所は相互に重なり合っており、結合しあっている。「意識の野」は「有の場所」を包む一般者であり、「絶対無の場所」は「意識の野」を包む一般者である。
場所の思想は、自覚の思想と述語(一般)が主語(特殊)を包括するという判断の基本形式が結合したものである。西田は「主語となって述語にならないもの」というアリストテレスの基体の考え方(主語の論理)に対して意識を「述語となって主語とならないもの」と考え、基体は意識によって包摂されることによって認識の対象となると考えた。この主語面を含んだ述語を拡大していけば、その極限において、どの述語にも包摂されない、あらゆる述語を自己の内に包摂する述語に到達すると考えられる。このようなあらゆる述語を超越した「超越的述語面」が「絶対無の場所」であって、このような場所において超越的主語面である基体が反映されるという述語の論理を西田は考えた。
こういった意味において場所の思想は、有るもの、働くものの根底にこれを包む絶対無の存在を想定し、前者を後者の影像として考える、東洋的無の思想の哲学的理論化であったといえる。

「絶対無」

相対的な有・無に対して、それらの根底に両者を包み、両者を生じさせる絶対的な実在のこと。純粋なノエシスであり、対象的・ノエマ的には絶対に無になるものである。

「行為的直観」

歴史的現実界の展開過程を主体的自己の側から、主体的自己の行為に即して捉えたもの。こうした行為的直観の例としてポイエシス(芸術的制作)が挙げられる。画家は対象を見てそれによって動かされて画を描く。見ることが描くことであり、直観が行為である。画家が描いた絵は画家自身の分身であり、画家はその絵の中に自分自身を見る。画家は絵を描くことを通して自分自身を見るのであり、働くということは見ることであり、行為は直観である。こうして直観が行為を生み、行為が直観を生む、両者は矛盾するのではなくて相即的、相補的である。
「行為的直観」にはその性質として自己否定の契機が不可欠である。「物となって見、物となって行う」を体現するには物が物でありながら(自己否定的に)自己であり、自己が自己でありながら(自己否定的に)物であるときにはじめて成立する。

「絶対矛盾的自己同一」

歴史的現実界の内的な論理的構造のこと。絶対的に矛盾的なもの、絶対的に対立的なものが、矛盾し対立しながら、全体として自己同一を保持している状態。具体的には時間と空間の関係が考えられえる。連続的に進行する時間から瞬間を切り取る場合、その限定された瞬間はもはや現在の瞬間ではなく、すでに過去の瞬間として消滅している。瞬間は自己を限定することによって生じると共に滅する。このように考えると時間は連続的であると同時に、その瞬間瞬間において断絶していると言わなければならない。時間は「非連続の連続」として考えられる。
時間はただ直線的なものとのみ考えることはできず、円環的な側面を持っている。瞬間は他の瞬間に対して自己自身を限定することで成立する。しかし、そのためには瞬間と瞬間は同時存在的でなければならない。瞬間と瞬間は継起的であると同時に並列的でなければならない。すなわち現在の中に過去と未来は同時存在的である。過去は現在の過去、現在は現在の現在、未来は現在の未来である。こうして西田における時間は過去・現在・未来を含む「永遠の今の自己限定」あるいは「絶対現在の自己限定」として考えられる。時間は、瞬間(個物)の不断の自己限定として非連続の連続として考えられるが、しかしその根底には「永遠の今の自己限定」という場所(空間)的限定(一般者の自己限定)としての意味が無ければならない。反対に空間も自身の内に否定を含み、非連続の連続として時間を包む。
このように、歴史的現実界は、絶対に矛盾するもの、対立的なものが、相互に矛盾し対立しながら、同時に全体として自己同一を保持している。

参考書

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西田幾多郎の思想 (講談社学術文庫) | 小坂 国継 |本 | 通販 | Amazon

西田幾多郎の生命哲学 (講談社学術文庫) | 檜垣立哉 | 哲学・思想 | Kindleストア | Amazon

西田幾多郎の哲学=絶対無の場所とは何か (講談社選書メチエ) | 中村昇 | 哲学・思想 | Kindleストア | Amazon


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