誰そ彼時の彼女(連作小説:微と怪異①)
9月になったばかりだというのに、今晩はものすごく冷える。
ーー半袖にカーディガンなんていう薄着で家を出るんじゃなかった。
酒田美乃梨は身体を縮こませながら、ホーム上を歩いていた。
時刻は午後10時半過ぎ。
大学で調べ物をしていたらこんなに遅くなってしまった。しかも、乗り換える電車は本数の少ないローカル線。たっぷり20分は待たされる。
乗り換える線のホーム上には、リュックを背負った小学生くらいの少年が数人と、美乃梨と同じくらいの若い女性の姿が見られるだけだった。
皆スマホでも見ているのか俯いていて、顔はよく見えない。
ーーこんな遅い時間の電車にも子供が乗っているんだ……
チカチカ光る蛍光灯に照らされたホーム上には売店などない。
まだ「つめた〜い」飲み物しか売っていない自販機の灯りには羽虫が群がっている。
自販機の前を通り過ぎ、美乃梨は待合室の戸を開けた。
待合室の中は蛍光灯に照らされて明るく、1人の乗客がベンチに座っていた。
その人(たぶん女性)はツーブロックカットの髪を青色で派手に染め上げていた。
それも、頭頂部から後頭部にかけて、日没直後の空のような、暗緑色から藍色へのグラデーション。
黒い革ジャンにジーンズ、紺色のマニキュアが塗られた指には銀の指輪、手首に青い目玉みたいな模様の数珠、耳には銀のイヤリング。
そして、室内なのになぜかサングラスをかけている。
--人を見た目で判断しちゃだめとはいうけれど、この人と二人きりはちょっと嫌だな……
「あのう、すみません、お姉さん」
そんな彼女に声を掛けられ、美乃梨は少しぎょっとした。少しかすれたような、女性にしては低めの声。
「……私ですか?」
「あなたしかいないじゃないですか。僕、この路線乗るの初めてで。まだ電車って、来ますよね?」
「……最終が、20分後に来ますよ」
「ああ、よかった。中々来ないから終わっちゃったのかなって」
話してみると怖い人じゃなさそうだ。美乃梨は会話を続けた。
「遅い時間だと、本数が少なくなるんですよ」「そうなんですね。宿まで帰れなかったらどうしようと思ったんで」
「ご旅行、ですか?」
「ちょっとした調査です。この地域に伝わる怪異の噂の聞き取りをしてまして」
「カイイ?」
「妖怪やお化けとかのことですよ。そういうものの噂を、集めているんです」
そう言うと彼女はサングラスを外し、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
……やっぱり変な人かもしれない、と美乃梨は思った。
「……物好きなやつだなって、顔に書いてますよ。まあみんなそう思いますよね」
「実は僕、N市で国内外の魔除けとか民芸品を扱う店をやってて、半ば趣味、半ば勉強のために集めてるんです」
そう言って、彼女は美乃梨に名刺を差し出した。
そこには、「怪異蒐集家 井城 微」と書いてあった。美乃梨は少し警戒しながら名刺を受け取った。
「でも……お化けの話なんて、そんな集まるもんなんですか?」
「『学校の怪談』とか、身近で――フィクション以外で聞いたことありません? トイレで出るお化けの話とか」
彼女――微は長い脚を組み直し、笑みを崩さないまま、美乃梨に尋ねた。
「……うちの小学校にも、あったかも」
「案外あるもんですよ。というか、僕もそういう噂を聞いて――実際に体験した人間なんで」
「……実際に体験? お化けに出会ったってことですか?」
「ええ。良ければ暇つぶしに聞きませんか。大した話じゃないですけど」
そう言うと、微は美乃梨の返答も聞かず、こんな話を語り始めた。
*****
僕、小学生の頃は両親の仕事の都合で転校を繰り返していて。
当時ーー4年生の秋ごろ、T市ってとこの、I河の近くにある小学校区に転校になって、大きな集合住宅に住んでたんです。
まぁこれは僕の性格もあったんだろうけど、転校する先々で友達を作るのが苦手で、クラスにも近所にも、友達が中々できなくて。
ちょっとずつ女子の間でグループが出来上がる時期だったから、余計にね……。
そんな中でも話しかけてくれる子がいて、その子がこんな変な噂を教えてくれてね。
低学年の間で流行ってた噂で、夕方に集合住宅の近くにある公園で遊んでいると、「お化け」がいつの間にか遊びの輪に交じっている。
その子とそのまま一緒に遊ぶとお化けの国に連れていかれる、って。
お化けは、暗くて顔はよく見えないけど姿かたちは子供そのもので、一見お化けだとは分からない。
けれど、お化けかもしれないと思った時に、「君は誰」って聞いたとき、「うちはうち」と答えたら人間で「うちわもち」と答えたらお化けだと見破れる、と。
それを聞いたときは、最初はなんだそりゃ、と思いました。
僕みたいに、引っ越してきたばかりでそんな合言葉知らない子だっているし。
……実際、それで「合言葉を言えないからお化けだろ」と同級生をいじめたって問題になったみたいだし。
そんなの信じるなんてくだらないなって思いながら、僕は放課後、その噂の公園に出かけてよく時間をつぶしてました。
両親は共働きで、家に帰っても誰もいなくてつまらなかったから……
遊びの輪に加わるでもなく、駄菓子屋で買った飴をなめながら、ぼんやりと周りで遊ぶ子たちを眺めてました。
彼らは僕と同じ団地の子だったけど、学校のクラスや住む棟が違えば顔も知らない子も結構いて。
ーーそれは他の子も同じで、小さい子なんかは、知ってる子かなんて構わず遊んでた印象があったな。
そんなある日、その日も親の帰りが遅くて、いつものように公園でぼんやりしていて。
日が沈みかけた6時頃、他の子供はみんな帰ってしまって、私だけが1人ぽつんと取り残されたことがあってね。
ふと気づくと、いつの間にか僕のそばに1人の女の子が立っていたんです。
顔はよく見えなかったけれど、年格好は僕と同じくらいでした。
同じ小学校の名札を付けていたから、僕は「君も1人?」と話しかけた。そしたら「一緒に遊ぼうよ」って。
僕も暇だったから嬉しくて、「うん、いいよ。何して遊ぶ?」って聞いたら、「砂遊びしよう」と。
でもその公園には砂場は見当たらなかったから、滑り台で遊ぼうという話になって。僕は肩からかけていたポシェットが邪魔になるだろうと思って、外してベンチに置いたんです。
そしたら彼女、そのポシェットを手に取って、「これ、くれるの?」って。
僕はちょっと面食らいました。ハンカチや小銭くらいしか入らない、大したものじゃなかったけど、「僕のだから、あげないよ」って言いました。
そしたら彼女「じゃあこれと交換」と言って、大きな葉っぱの包みを僕に押しつけてきて。
ーー中には月見団子みたいな、美味しそうな団子が何個か入ってたんです。
さすがにこの子、何か変だなと思って……僕は少し質問したんですね。
「君も集合住宅の子?」「だな」
「僕は南棟なんだけど何棟?」「何かしら」
「I河西小の子だよね?」「たぶんね」
……やっぱりおかしい。そう思った僕は、冗談半分で「合言葉」を試してみました。
「君は、誰?」
「うちわもち」
お化けだ。
僕は背筋に氷を当てられたみたいにぞくっとして、逃げなきゃ、と思いました。
彼女に背を向けて、「そうだ、かくれんぼしよ! 君が鬼で、僕は隠れる。団地の駐輪場でやろ!」と大きな声で言って走り出したんです。
後ろを振り返らず、全速力で、明かりのする方へ。
駐輪場までたどり着いて、恐る恐る後ろを振り返ったけど、彼女は追いかけて来ませんでした。
途中向かいに住んでいるおばさんが通ったけど、その人の顔がはっきり分かるくらいその駐輪場は明るくて。
そのおばさんは息を切らしている僕を不思議そうに見て、「ズボン、土で汚れてるよ。もう日が暮れたんだからお家に入りな」って言いました。
それで気づいたんだけど、僕が手に持っていた葉っぱの包みから、湿った土がぼとぼと漏れ出ていたんです。
包みを開くと、そこにはあの美味しそうな団子はなくてーー泥だんごがいくつか入っているだけでした。
その次の日の朝、僕は公園にポシェットが落ちていないか見に行ったけど、どこにもなくて。
お化けに盗られたと言って信じてもらえるとは思えなかった。
だからそのことは誰にも言えませんでした。
そして、その公園では二度と遊ばないまま、僕は別の街――今住んでいるN市に、引っ越してしまったんですよ。
*****
「……怖いっていうか、なんか、気持ちの悪い話ですね。お腹のあたりがぞわっとするというか」
美乃梨の言葉に、微は頭をかいた。癖のあるカラフルな前髪がパサリと揺れる。
「当時の僕は物凄く怖かったけど、今こうやって話してみるとそう感じますね。結局何だったんだっていう、気持ちの悪さがある」
「……それの正体を調べるために、怪異を集めているんですか」
「うーん、ひょっとしたらそうかも」
「色々調べると、似たような話は結構あって――黄昏時、狸とかカワウソとかが人間に化けていたけど、『誰だ』って聞かれて正体がばれる話とか」
そう言うと、微は傍らに置いたブラックコーヒーの缶を開け、一口飲んだ。
「僕が思うに、あの少女の怪異は、大きな集合住宅とか面識がない人に会う機会のある場所で起きる、『知らない』子への潜在的な恐怖から生まれたんじゃないかなって」
「はあ……」
「カワウソや狸の話もそうだけど、『誰そ彼時』――すれ違う人が誰か、人間なのかすら分からない薄暗い時間っていうのは、根源的に怖いことなんです」
「そして現代にも、その『知らない』人への恐怖は残っていて、怪異として現れていた……」
嬉しそうにそう語る微を見て、美乃梨はさっきとは違う、ぞわっとした感覚を覚えた。
その時、待合室の外から電車の到着を知らせるアナウンスが聞こえてきた。
美乃梨は少しほっとしながら立ち上がり、待合室の戸を開けた。
誰もいないホームを、電車のヘッドライトの眩しい光が照らす。
「……あれ?」
美乃梨は、ふとホームを見渡した。
ここに来た時、何人か電車を待っている人がいたはずだが、ホームにも車内にも、乗客は誰もいない。
「どうしたんです? 乗らないんですか」
「あの、ここに来た時、ホームで何人か見ませんでした? 小学生くらいの子たちと若い女性」
「え?」
微はホームに突っ立っている美乃梨を追い抜き、列車の座席に腰を下ろしていた。
「いや、僕はあなたが来る15分くらい前からあのホームにいたけど……あなた以外の人とは会いませんでしたよ」
「それで僕は、ひょっとしたら終電逃しちゃったのかなって思ったんですが」
「……え?」
発車ベルが鳴り、美乃梨は慌てて列車に飛び乗った。
二人だけの乗客を乗せ、最終電車は駅を出る。
「そういや、僕がこの辺りで聞いた怪異の噂も、さっきの話に似ているんですよね」
「遅い時間に外を歩く子供や若い女性を見かけて、気になって話しかけてみたけど答えず、顔すら上げない」
「そしてふと目を離した隙に消えていなくなっていた……ていう話なんですけど、ね」
(おわり)
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参考にした文献:筑摩書房『新装版 定本柳田國男集』(昭和43年刊)第4巻「妖怪談義」(pp.291-307)