自分の時間

一緒にいても自分の時間を過ごせる人が好きです。言い換えると、無言でいても苦しくない人ですかね。心地のいい空間に、心地よい時間が流れる。よい。

昨日の昼ごはんは学食で食べた。すると、隣の席に女の子が2人隣り合わせで座っていた。食べ終わっている様子だったが、ゆっくりしていた。席と一体化していた。特にガツガツ話す訳でなく、全時間の5%くらい話していたように思う。ふたりがそれぞれ同じ場所でゆっくりしてるだけ感。なんかいいなーと思った。彼女らは、僕がゆっくり魚を食べ終わって、席を立ってもなお、ゆっくりしていた。

他の場面で、ヒッチハイクをした時に、とあるバンドの方とご一緒させていただいた。結構パーキングエリアで止まり、その都度トランクを開けて団らんが始まる。ある人はギターを黙々と触っていて、ある人はタバコを吸い、ある人はどこかを眺めていた。その中で、誰かがぽつんと何かをいえば、しばらくして誰かが自分のペースで相槌を入れる。全てが調和的だった。ちょうど、野原でそよ風が吹くような。一体化していた。

話す内容も取り留めもなく短い、だが共通認識の元、会話が成り立っていた。行間で会話してるとでも言うのだろうか。話さなくても、なぜか手持ち無沙汰じゃないのだ。

ここで思ったのは、おそらくこれらのコミュニティーでは、「それぞれの時間を過ごすこと」が出来ていて、決して誰かに依存する時間を過ごしていないということだ。個人が集まっているような感じがした。よい。

このような調和的な雰囲気は、どんな人達の間に生まれるのか。共通認識や、相互理解が深い人達なのだろうか。きっとそうだと思う。

少し話が飛ぶが、親しき仲にも礼儀ありという言葉があるが、これは共通認識や相互理解にズレがあるということだと思う。こう考えると、いいコミュニティー形成の条件は、互いの理解の深さに対して、互いに干渉できる範囲が超えないことだと思った。

それぞれが自分の思うままに振る舞い、それが受け入れられる環境に身を置きたい。

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