見出し画像

取り繕って書くの、やめてみますね。

書くことの楽しさ、忘れてたんだと思う。

今までの僕の記事って、半分以上、嘘だった気がする。
それは、せっかく読んでくれるんだから、
何か得るもの、楽しさ、学び、いい感じの暇つぶしになれれば、なんてことをある程度狙って書いていた節があって、自由じゃなかった気がしてます。

そういうこと、やめてみます。

読みにくいと思う。すいません。

でもなんだろ、狙いとか意図とかできるだけ排除して、
このキーボードに文字を打っているこの瞬間の僕の楽しみみたいなのを表現できれば、それでオッケーってことに、しよう。

書きたいことを考えるのもやめます。
いや、ちょっと違うな、書いているうちにそれは出てくるんです。その瞬間の閃きみたいなものはむしろ、書きながら出てくるもののほうが、面白そうだし、光ってる。そっちに賭ける。

躁なのかもしれない。

それでいいし、楽しいし、躁状態の記録ってことで、僕としては無価値ではない。面白いやん。

精神科の先生には「双極性二類かな?」なんて曖昧な感じで診断されたし、自分で調べても特徴が当てあまりまくるし、そうなんだろうとは思っていますが、まあ、いいんじゃない?という具合に今はなっている。
西洋医学で治療しようとすると、長い間、副作用出まくりの薬を飲み続けなきゃいけないみたいで、なんかやだし。

とはいっても鬱の時期はたまにやってきて、ものすごく辛いんですが、それもここ二年くらいはマシにはなってきてるかな。

書いていると、強制的にソウを引き出されるような感覚もあるけど、それは減るものでもないし、反動で鬱がくるものでもない。
ただ楽しさを体いっぱいに感じつつ、体力が続く限り書くっていうのは気持ちいい。それをこの場を借りてさせて頂いているって感じですかね。

書く楽しさが湧くように、思い出させてくれたのはこの記事です。

坂口恭平さん。
11年くらい前かな。
「独立国家の作り方」という本とか、
「0円ハウス」とか、
宮台真司との対談が物凄かったりとか、
自分の携帯番号を公開して、いのちの電話を受けまくってるとか、
すげえなこの人、と思ったんだ。

ああなんか説明するのもめんどくさくなってきたのでやめます。

なんかのきっかけでこの記事を読み始めて、
その文章の、自由さ、躍動感、ほとばしり、
トライブ感、言語野のかき乱し、意味の除外、勢い、
みたいなものに感染したようで、
言語野と脳髄あたりに共振を引き起こされ、
今これを書いているわけです。

一番、トドメになったのは、

書きたいのに書けないときは、
それを書きたくないからで、
書きたいことは他にあるからだ。

その書きたいことは、書いているうちに出てくる。

そうらしい、ってことが、理屈じゃなく、
その記事の文章から、感染的に、波がやってくるように、
伝わってきたのです。

ああ、忘れてたな。書くことの楽しさを。

いまそれを実行してみているわけです。

どうですかね?
整った文章のほうがいいですか?

映画掘り下げ話のときみたいに、
目次とか、見所ポイントとかでまとめて
論理の中の美しさや面白みを狙う文章のほうが好きですか?

それはそれで楽しかったけども、今この瞬間に感じているような書くことの楽しみとは別のものだったし、
少し疲れる。

それは、僕が勝手に決めた、ルールというか思い込みみたいなものが、純粋な書くことの楽しみを邪魔していたんだなと、今思います。

継続できるかはわからないけれど、
坂口さんも言ってた、
継続は幸せだし、幸せは継続そのもの、という世界に入り込みたい。

だから、継続することにします。
鬱がやってきたら、そのこともそのままの形で書こう。
書けないです、と書いてみよう。

鬱の俺へ、という手紙を書いてみるのもいいかも。

あと、箱庭が気づかせてくれた、
自分の中にいる多重的な人格についても、書いてみたいかも。

まあそれもその日になってみないとわからない。
書いたいことは書きながら出てくるから。

こんなむちゃくちゃな文章になったけど、どうなんでしょう。
まだ心配してる。

でもいいや。楽しいから。
書いてて楽しくて、それをお手軽に共有できるツールがあって、お読みいただけるあなたがいて、ありがたい。

そんな感じです。

今日もありがとうございます。

ここまでお読み頂きありがとうございました。 こちらで頂いたお気持ちは、もっと広く深く楽しく、モノ学びができるように、本の購入などに役立たせて頂いております。 あなたへ素敵なご縁が巡るよう願います。