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千葉の山奥に滞在して~狩猟編

四月初め、一週間ほど千葉の山奥の集落に滞在していました。
訪れるのは三回目でそのたびに発見と驚きがあります。そこで体験したこと、感じたこと考えたことを書いてみます。







食べること、命、生きること。


都市にいると自分が食べている食べ物がどこから来ているのか、誰が調理しているのかを意識することが少ないように思います。

今回の滞在で鹿(しか)や猪(いのしし)の罠による狩猟に同行させて頂きました。罠猟師の朝は早い。早朝に軽トラックで出発します。


罠を巡回していると鹿が一匹かかっていました。そこから槍で鹿の命を絶つ。一発で死なないこともあり、鹿がもがき苦しむ姿がそこにはありました。しばらくして動かなくなりました。


目の前の命と対峙すること。


生のリアリティとも呼べるものがそこにはありました。

言葉や文章で読むこと知ることと実際に目の前で見ること体験することには感覚や質、伝わってくるものに大きな差があります。



連れて行ってくださった方はある日に鹿と対峙した時、鹿に対して、

「よろしくお願いします」

という気持ちが芽生えたと話してくれました。目の前の鹿が自分の身体になり、血肉になる。鹿が”わたし”になっていく。鹿への感謝とよろしくお願いしますという気持ち。



そこには命の循環があるのだろうなあと想像しながら聞いていました。


動的平衡としての生命。

命が個に閉じていなく、つながりの中にあること。私の存在の根拠を私だけでなく、大地や風土、まわりの環境や命のつながり、連なりに探っていくこと。





人間性なるもの


集落の方たちは鹿や猪たちに対して、


「あいつらは~」「くそう、土地が荒らされてしまったなあ」
「この罠にはもう気づいているのか。何年もここに生きている大人の鹿かなあ」
「この罠もだめだったか~賢いな、悔しい」

といったことをよく話していました。それはまるで鹿や猪と対等にコミュニケーションを取りながら対話したり、争ったりしているようでした。さらに言い換えると鹿や猪に”人間性”なるものを見出しているようでした。



5/18追記:
僕は人間だけの視点から物事を決めたり、考えたりする"'人間中心主義"というものを改めて問い直し、多種のあいだで豊かな世界を模索することに関心があります。

その上で、自分自身の固定概念や囚われに自問自答する日々です。今日友人とこの記事を読みながら話している時に「動物もコミュニケーション取ってるよね、人間だけがコミュニケーションを取る生き物だということも思い込みだと思う」と伝えてくれました。

それを聞いたときにはっとさせられました。僕の書いていたことは、考えていたことは人間の視点から記述したものではないか。人間中心主義的な文章ではないのか、と。

例えば、土と微生物も、細菌も、鳥も動物も、空も大地も海も、それぞれが相互に絡み合いながら影響しているよなぁと。反省です。

今回書いていることと関連すると思い、以下に僕が学んで研究しようとしているマルチスピーシーズ(多種)人類学研究会のサイトから文章を引用します。


わたしたちは「人間」という単一の主体を最小の単位として、近代以降の世界をつくってきた。



人間や人間の共同体がどうあるべきかにのみ関心を示し、人間以外の存在を外部の変数として扱い、人間による人間のための知識や文化だけを重んじてきた。



しかし、今日わたしたちは「人間以上(モア・ザン・ヒューマン)」の存在に揺さぶられ、この「人新世」の時代の中で、人間中心主義が問題化され、気がつくと主体でなくなってしまっているのではないだろうか。



人間が客体化した時代、人文学(ヒューマニティーズ)は「モア・ザン・ヒューマン」に向けて、人間を超えて考えなおしていかねばならないだろう。



ここでは、人間以外の種にまで想像力を及ぼす「マルチスピーシーズ人類学」、人類学だけでなく哲学・歴史学・文学などを横断する「環境人文学」を中心に、国内外の研究者たちのインタビューを紹介していく。



「モア・ザン・ヒューマン」の領域に踏み出した人々が思い描く「今」が、誰かの次の一歩を築く足場になればと考えている。



マルチスピーシーズ人類学研究会





都市に比べると人間と動物の境目があいまいで揺らいでいる。そこには人間や動物を超えた共生を考えるヒントが肥沃(ひよく)に隠されていると思うのです。共生~共に生きる、と書くとやわらかくて優しい印象を受けますが、そんなに優しく簡単なことではないと感じています。


どんな存在同士であれ共に生きるためには衝突や摩擦、すれ違いも多々あります。集落の人たちも動物たちとこれからどう生きていくのか日々を過ごしながらもがいています。




狩猟の現実


ここから少し強めに。

日本で狩猟されている鹿や猪、その他の動物の多くは土に埋められています。有害鳥獣駆除というものがあり、補助金を元手に動物を駆除しそこにお金が出る仕組みがあります。もちろん地元の方は食べることもありますが、捕まる数が比較にならないほど多く、解体することも難しいです。そのため殺して土に埋めるという現実があるのです。ジビエの流通も担い手、設備の不足や衛生面の法律もあり、なかなか進んでいないのが現状です。

小さな集落で起きていることですが、流れをたどるともっと大きなものによって引き起こされていると思います。

山や森に暮らしている動物たちが”有害”とされているのは人間の都合です。


開発によって自然が開拓されて動物たちのすみかが減少してきたこと。また都市化により人が都市に流れて地方や田舎の集落を維持することが難しくなったことも影響しています。

それらによって動物たちが食べ物やすみかを求めて人里に降りてきた。実際に自分の目で見ましたが、猪が道を荒らし畑の農作物を食べる。それはそれは力強いものでした。どうにもならない現実がありました。

都市やベットタウンなどの郊外では人と動物の住みわけがされています。東京に鹿や猪が来ることはめったにないでしょう。都市において人は物質的に豊かになりました。しかしその豊かさの陰に中山間地域や田舎において生態系のゆがみが生じています。(生態学や植生、エコシステムや森のこと山のこと学びたい)



これからも鹿や猪は増え続けるみたいです。それはこれからも動物たちの命が絶たれ土に埋められ続けるということも意味します。この現実をなんとかしたい。立ち向かいたい。僕はジビエの認知や普及から取り組んでいこうと思っています。ここらへんのことはまたいずれ。


狩猟免許も取りたいし、解体の知恵も学びたい。出来ることからはじめていきます。




命と向き合う。生を取り戻す。


滞在中たくさん鹿肉を食べさせて頂きました。今自分が食べているものが命あるものであったことをより身近に感じます。普段僕はお肉を食べるときに生産過程や食べているお肉が生命であったことを意識することがあまりありません。けれど、最近ちゃんと命と向き合わないといけないのでは?という感覚が自分の中に芽生えてきました。



これから生きる中で僕はどれだけ命と向き合い続けることが出来るのだろう。わからないことと付き合い、向き合い続けたいです。

いろいろ考えた上で今の僕はお肉を食べるという選択をしています。その上でできる限り生産の現場に足を運びたいし、可能であれば一緒に作業もさせて頂きたい。牧畜や畜産、酪農も。

以前長野の村に行ったときにも鹿をさばく経験をさせて頂きました。

自分の腕で手で生き物をさばくこと。まだあたたかさの残るからだにふれることは”命”を感じさせてくれます。

生きているという実感。”生”を取り戻していくこと。システムやテクノロジーから”人間性”を取り戻していくこと。葛藤しながら抗いながら、たまに流されたりしながら生きていく。




最近は疲れがある中でいろいろなものに応答しながら過ごしています。渦中にいる今はしんどいけれど振り返った時に感じる幸せがとっても好きなので、無茶しすぎずに応答しながら過ごしてみます。


国際情勢を見ているとやりきれない気持ちになります。

悲劇の絶えない世の中だけれど、灯(ともしび)を絶やさず連帯しながら歩んでいけたら。


空を見上げることと深呼吸を忘れずに!








ひとと自然、ひとと文化、ひとと社会、ひとと人を結びなおす、つなぎなおす、ゆるめる、ほどく、豊かな幸せな関係をみんなで創っていく事業に使わせていただきます!