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都市と地方の関係を模索する〜文化人類学を手がかりに

書いてみると思いのほか長くなってしまった。。そしてもしかしたら難しい話題や用語が出てくるかもしれません。無理せず読み飛ばしながら読んでみて、雰囲気だけでも掴んでいただけると嬉しいです!

ではいってみよう~!






文化人類学ー文化と在来知、マルチスピーシーズ人類学


僕は田舎が好きです。その土地や地域に根づく風習や文化、土着の知恵や厳しい自然を生き抜く人の姿に憧れたり、心惹かれるからです。それらは近代科学における科学知と対比(?)して在来知と言われたりもします。


文化とは人の営みや心の集積であり、そこには民藝、自然、動物、植物、微生物たちが関わっています。


僕は文化人類学という学問を学んでいて、その背景もあり日本全国を旅しています。文化人類学は旅する哲学、と言われることもありフィールドに入ることが欠かせません。これは僕自身の在り方とも馴染んでいて、とても好きな学問です。近年文化人類学の中でマルチスピーシーズ人類学という流れが生まれていて、人間中心主義からどう距離をとっていくのか、どう人間中心的な考え方から解放されていくのかを見つめながら、人間だけではない視点含めて民族誌(文化人類学における研究成果や論文のようなもの)を記述することが増えてきています。


研究として論文を書く段階にはまだ至っていないのですが、旅をしながらいろんな地域やローカルに入り込ませていただいているのでそこでの経験を民族誌の練習としてこのnoteに書いていこうと思っています。地方や田舎について書いていく前に都市についても扱いたいと思っていて、今回は都市について書きます。

大前提として、都市を否定する意図はなく、都市と地方の豊かな関係を考えたいという気持ちで書いています。東京都内にいることも多く、素敵な場所もたくさん知っているので!都市の素敵なところもいっぱいあります!




研究や実践における関心と問い


都市についての話に入る前にすこしだけ寄り道を。


僕は今日本における都市と地方の関係性、地方における人の流動性について独自に研究(ここでの”独自に研究”という意味は大学などの機関に所属せずに、という意味です。)しています。また様々な組織や団体、個人の方と協力しながら様々なプロジェクトを実践しています。



僕が関心のあること、問いを書き出してみると、

・文化を保全し後世に繋げていくこと

・過疎地域における人の営み、文化について考えること
→どのような形で集落を維持していくのか。祭りなどの文化を継承していくのか。また場合によっては地域を看取る、納得のいくかたちで終わらせる必要もあるかもしれない。

・過疎化や耕作放棄地は”悪いこと”なのか?
→人の視点から見るとふるさとや景色が失われることは寂しいことでもある。しかし、人がいなくなることで復元される生物多様性や生態系もあるのではないのだろうか。過疎化や耕作放棄地といった視点、考え方は”人間中心主義的”であるのだろうか。

一方、人が手を加えることで保たれる自然もある。里山とか。
里山に関してはまた別で書きます。

・日本における戦後の植林と現代の林業について
→国産木材の利用についてや人工林地帯における土壌・土砂災害について

・日本の食料自給率(肥料の自給率)

などなど。長くなりそうなのでひとまずこのくらいで。





都市におけるシステムへの依存


いよいよ都市について書いていきます。

近代に入り、重化学工業や交通網、第三次産業などの発展により人々は地方から都市部に流れたと言われています。


僕は都市における人の生き方に疑問や違和感を抱いています。僕の感じている疑問や違和感の起源のひとつには一年間離島に暮らした経験があると思います。


都市について、まずシステム依存という視点から考えてみます。

例えば交通手段。都市において、移動に用いるのは主に電車やバスなどの公共交通機関です。駅で電車を待っていると人は急いでいるように見えます。遅刻しないように、遅れないように、と。


僕もなぜだか都市にいると時間に追われているような感覚になります。
電車が事故や災害によって止まると駅には人が溢れます。そこで歩いて帰ろうとする人はあまり見かけません。

その要因の一つには移動をシステムに頼ることによって、自らの歩く力を失ったからだと思います。一年前くらいから電車だけに移動を頼ることに違和感を感じ始めて、都内でもたくさん歩くようにしています。終電を逃して20キロ歩いて滞在先に帰ったこともありました。僕は人が歩くことを日常にすることによって、電車が事故や災害によって止まったとしても歩いて帰る人が増えて、人が駅に溢れることによる不快感やいらつきを防ぐことが出来ると思います。電車が止まったら歩いて帰ればいいだけ。そんな当たり前のようなことを体力の低下によって出来なくなっている構造的な理由があります。(と書いた一方で、様々な事情によって歩くことが困難な人のことも考える必要があると思います。)


そもそも電車が時間通りに来ることが当たり前ではないこと。この事実を便利の枠の中にいると気づくことが出来ません。だからきっと人は電車が時間通りに来なかったらいらいらするし、電話で会社に遅れることを謝ったりする。(都市における時間についてはまた別で書きます!)




都市にいると思い通りにいかないことへの耐性がどんどん無くなっていく感覚があります。
お金という貨幣があればご飯も食べることが出来る。映画やカラオケ、お店に入れば大体の物は手に入る。移動もできる。

養老孟子さんの言葉を借りると”ああすればこうなる”社会です。それらは予測の範疇を超えません。脳化社会。身体を忘れてしまっています。


人がシステムに依存するようになったこと。そのことによって人が感情や人間性を忘れてしまっていると思います。これは社会学者の宮台真司さんも指摘しています。

こんな状態では災害が起きたときに脆弱です。もっと人が歩くこと、身体を使うことを思い出していく必要があると思います。



人との繋がり、人間関係という視点からも都市について書いてみます。

都市にはコンビニがあり、ウーバーイーツがあり、アマゾンがある。(地方にもあるけれど圧倒的に都市部に集中している。)人がテクノロジーやシステムに頼ることが出来るようになり、人間関係が無くても人とのつながりが無くても、生きていけるようになりました。地域コミュニティが形骸化していく。人間関係が希薄化していく。

僕はこうした状況を打破することのヒントが利他、ケア、贈与といった概念にあると思っています。概念ではあるけれど、経験の世界と乖離しているわけではなく、手触り感のある現実と地続きの概念たちです。

お金だけの世界から、損得の世界から抜け出していくこと。全人格的なつながり。人の心。













信州大学建築学部の友人が出来て「都市をたたむ」という本を教えてくれました。まだ読めていないけれどおすすめの本を他にもいくつか紹介しておきますね。







僕は日本においてもっと人々が都市と地方を行き来するようになったらいいなと思っています。特に都市に暮らす人々が地方や田舎に行って1年間暮らすような在り方が実現したら嬉しい。

養老孟司さんは逆参勤交代を提唱したりしています。


ふと調べてみたらこんなプロジェクトが出てきた。素敵。


https://www.relation-ur.jp/




おわりに

人類学に興味が出てきた人へ、こちらの教科書が分野横断的に言及されていておすすめです!文化人類学者の松村圭一郎さんや奥野克巳さんが書かれている本もおすすめです。ぜひ。



次回以降すこしづつ旅での経験や学びについて書いていこうと思います。マイペースに行こうと思うのでゆったりゆっくりお待ちください~


旅でのいろんな経験を経て「これは日本で僕しかいない、僕がやるしかない!!」と(勝手に。笑)ふと思い立ち、立ち上げ準備中のプロジェクトもあるのでそちらもお楽しみに!!

僕は今長野県の小さな村に来ていて、久しぶりに会うこどもたちと遊ぶことが出来て満足な気持ちです。彼ら彼女らは本当にすごい。学ぶことがたくさんある。一緒にいると元気になります。嬉しいなぁ。。

みなさんも素敵な日々を!!






ひとと自然、ひとと文化、ひとと社会、ひとと人を結びなおす、つなぎなおす、ゆるめる、ほどく、豊かな幸せな関係をみんなで創っていく事業に使わせていただきます!