小川和人『41歳の東大生』-大人の学習とは-
まず最初に本書の公式紹介ページと概要のリンクを掲載しておく。
0. 導入
18歳かそこらの人間が大学入試に合格することは難しい。中高一貫校ならまだしも、高校に入学してからカリキュラムどおりに学習を進めれば、高校三年生で受験に間に合わすのは偏差値50の大学でも厳しいだろう。その点では大人が大学受験に取り組むのは時間の要素を除けば高校生より有利ではないかと考えている。
小川は、明治学院大学社会学部(河合塾偏差値50.0-55.0)を卒業し、郵便局員として働く二児のパパである。二人目の子どもが生まれ、三人目以降の予定がないことを夫婦で決めてから、再受験に取り組んだらしい。再受験に至った理由は外向けのそれっぽい理由と、内心の理由とがある。内心の理由とは、父の背中を追いたかったというものだ。小学校に通いながら食事の用意などの家事を行い、戦争に行き、終戦後に働きながら学問を修めていた姿にあこがれを抱いたのだろう。
私がここで考えたいのは、小川の大学生活のことではなく、一般に社会人とよばれる人がそれまでとはあまり関係のなかった分野の学問を勉強すること、また勉強のために大学や専門学校、資格予備校などに通うとはどういうことなのか、ということである。
1. 社会人が受ける教育
まず言葉の意味を確認しておきたい。ヘッダーの画像を借りたNECソリューションイノベータの説明を利用しよう。用語がたくさんあるが、とりあえずリスキリングとリカレント教育だけ見てみる。
リスキリングが企業主体でリカレント教育が個人主体であることが大きな違いのひとつであることを理解しておけば十分だと思われる。しかし、ここではリスキリングもリカレント教育も仕事に役立てるという点で目標は同じであるということの方が重要である。たとえば趣味で料理教室に通うことはリスキリングでもリカレント教育でもない。
では小川が大学を再受験したのはなんなのか。これも料理教室の例と同様に、リスキリングでもリカレント教育でもない。ただの趣味にすぎない。自分の生き方を考えるために哲学を学ぼうとするのはどう考えても仕事に直接的に結びつかない。私が本書を取り上げようと思ったのは、この点が引っ掛かったからだ。つまり、義務教育でもない専門教育を受けて、それを社会に還元することを念頭に置かない(あるいは還元するための十分な時間がない)人が大学に通うことをほめるだけでよいのか、ということが疑問である。
2. 専門教育を受けてどうするのか
専門学校や大学での教育は基本的には専門的なものであって、専門的な知識や技術を得た卒業者の進路の多くはその学んだものを活かす道に進むだろう。法学部を卒業して弁護士や裁判官、医学部を卒業して医師や看護師、専門学校なら美容師や調理師がメジャーだろうか。もちろん個人の選択によってそれまでの専門とは異なる道を志向してもかまわない。畑違いの人がいろいろな分野に進むことで発展が望めることは大いにあると思う。
小川が再受験して哲学を学んだことについて、当然ではあるが本書は前向きに書かれているし、巻末の東京大学名誉教授による解説でももちろん称揚されている。私はこれを読んでがっかりしてしまった。最初からそういう本なのはなんとなくわかってはいたし、小川個人としてこれがよい記憶なのは正しいのだろうが、勤務先である郵便局の職員や妻、子どもに支えられ、また大学に通っているのだから日本国民にも多かれ少なかれ支えられて学習してきたのだから、学んだことを還元しようという気概が本書でまったくみられなかった(そのような記述は見当たらない)ことに憤りすら覚える。私が郵便局の同僚だったら、小川は自分勝手なやつだなと思ってしまう。
本書は一般男性の再受験記であるが、ビリギャルとして知られる小林さやかの『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』や、徳島県から海外大学に進学した松本杏奈の『田舎からスタンフォード大学に合格した私が身につけた夢をつかむ力』のようなキラキラ要素や誇張した要素はほとんどないと思われる。だが、そのへんにいそうな41歳の人間が大学に通うことが周囲にどのような影響を与えるかというサンプルを通じて、「勉強するために学校に通わなければならない」はやはり嘘であることを再認識した。これが医学部再受験やロースクールの受験ならここまで批判的に考えることはなかった。社会人として持ちつもたれつの精神がない人とは仲良くなりたくないものである。
追記
せっかくいただいたコメントが消されていたため、残っていたスクリーンショットを貼っておきます。
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