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村上靖彦『客観性の落とし穴』-個人的体験は車輪か補助輪か-

0. はじめに

私が所属するオンラインコミュニティでは、定期的に本を読み、そこから考えたことを発信している。自分だけがその本を読むなら題材はなんでもいいのだが、他の人にも触れてもらうとなると、少なくとも自分がオススメできる本を題材にしたいと考えている。今回は、題材候補ではあったがオススメできる水準に達していないと判断した本を紹介して、供養することにする。

1. エビデンスピラミッド概説

医療系学問の研究では、その研究の信頼性を研究手法によりおおまかに分類することができる。それをピラミッドの形で表したものがエビデンスピラミッドである(本投稿のヘッダーの図に示した)。古典的なエビデンスピラミッドは、

  1. メタアナリシス

  2. ランダム化比較試験

  3. コホート研究

  4. ケースコントロール研究

  5. ケースシリーズ(複数の症例報告をまとめたもの)

  6. 症例報告・専門家の意見

であり、メタアナリシスがもっとも信頼性が高いといわれている。もちろん、症例報告や専門家の意見に価値がないというわけではない。エビデンスレベルの低いものは仮説生成をするために必要であり、それを検証したものがエビデンスレベルの上位に配置されている。

2. 客観的なデータに潜む主観・恣意性

ランダム化比較試験では、被験者の群分けをランダムに行う。群分けされた後に、年齢や性別の偏りなどを確認し、収集したデータについて解析を行う。たとえば、医薬品の有効性を確かめるために実薬群と偽薬群の2群に分けて効果を比較したい状況を考える。群分けでは

  • 非盲検(被験者も医療従事者も、被験者がどちらの群であるかわかっている)

  • 単盲検(被験者か医療従事者の一方のみが、被験者がどちらの群であるかわかっている)

  • 二重盲検(被験者と医療従事者の両方が、被験者がどちらの群であるかわからない)

のパターンが考えられ、二重盲検が最も人の先入観を排除しており、客観的でデータに信頼性があるといわれる。ただし、群分けした後に何をもって偏りがないといえるかは厳密に決定することはできない。年齢や性別に偏りがないことを理由に「群間に差はない」としたとしても、ふだんの摂取カロリーや学歴に偏りがあり、それが医薬品の有効性に影響を与えているかもしれない。群間で健康への意識に差があることがデータの収集に影響することもある。完全に客観的なデータを得ることはほとんど不可能であることを理解しておく必要がある。差があるかないかに興味を示した部分しか、結果を理解することはできない。

3. 客観より主観を大事にするべきなのか?

村上は以下のように言う。

私の研究は、困窮した当事者や彼らをサポートする支援者の語りを一人ずつ細かく分析するものであり、数値による証拠づけがない。そのため学生が客観性に欠けると感じるのは自然なことだ。一方で、学生と接していると、客観性と数値をそんなに信用して大丈夫なのだろうかと思うことがある。「客観性」「数値的なエビデンス」は、現代の社会では真理とみなされているが、客観的なデータでなかったとしても意味がある事象はあるはずだ。
数値に過大な価値を見出していくと、社会はどうなっていくだろうか。客観性だけに価値をおいたときには、一人ひとりの経験が顧みられなくなっているのではないか。そのような思いがわいたことが本書執筆の動機である。

はじめに

この部分だけを読めば、総論としては首肯できる。客観性だけではなく主観も大切である。客観性だけでは失われるものがある。それは当たり前である。客観性とは観察対象の個性を捨てて(観察しないようにして)ようやく得られるものだからである。原爆や天災の被害者や失われゆく文化の当事者(たとえばアイヌ民族)の語り部といった主観性は主観的であることに意味があるのも理解できる。

しかし、現実的には主観性を重視するデメリットは無視できない。たとえば医療従事者が患者の主観的な訴えをどこまでも聞き入れることはリソースの問題でできない。また、政治活動において各地におもむいて主観(個人の意見)を拾うことは意義があるが、何かを決定するときに個別の主観をすべて考慮することは困難である。教科書的な言い方をすれば、客観と主観は両輪あることが重要であり、客観のみ、主観のみに軸足をおいてはいけない。「両輪あることが重要」とは言ったが、私はできるだけ客観を重視し、そこでカバーできない部分を主観が補助輪としてふるまうのが適当なバランスなのではないかと思う。神は細部(主観)に宿ると言いたいのではない。単に主観や客観の限界を理解しているだけである。

私は職業柄、医療行為によって死亡した患者の情報に接することがある。患者本人や身近な人にとっては悲劇であろうが、私からすると単なる1つの症例にすぎない。主観に寄り添ってケアをする人がいてもいい。しかし私は他にやるべきことがあるのだ。

4. 本書をボツにした理由

本書は「なんかそういうデータあるんすか?」「それってあなたの感想ですよね」への対抗言論になっていると思う。所属するコミュニティで本書を題材に他の人に考えさせたとしても、あまり話が広がらないような気がしたため、ボツにした。改めて考えさせるほど重要なテーマではないし、こちらが提供しなくても興味があれば勝手に考えるだろうと思った。私にとっては「このメンバーで何を考えたいか」が重要であり、その観点で本書の優先順位が他の本に劣ったといえる。
また、ボツにした理由とは関係ないが、「エビデンス」という言葉の使い方には注意を払いたい。エビデンスは数値で表されるものに限らない。村上が集めた語り(特殊な事象)を一例ごとではなく複数例で分析することで、語りの傾向を把握できる。傾向を把握しておくと個別の語りの特徴に気がつくようになる。
本書のはじめにある、学生から村上への質問については、村上の活動が研究と呼べる水準に達しているかを確認しているにすぎないのかもしれない。学生からの質問に村上がどのように向き合ったのかは少し興味がある。

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