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小坂井敏晶『責任という虚構』-世界は虚構でできている-

まず最初に本書の公式紹介ページと概要のリンクを掲載しておく。

0. 導入
前回は同じ著者の『民族という虚構』を取り上げた。これまで虚構についてあまり考えてこなかったため、興味深く読むことができた。本書『責任という虚構』は小坂井による虚構論の続編である。本書の方が一般の興味を引きそうな気はするが、500ページ以上もあるため気軽に読めるものではなく、多少のリテラシーおよび考える力が求められている。今回は、本書の内容から離れて責任や格差と多様性の関係について短い意見文をしたためることとする。本書の続編に『格差という虚構』があるが、これについては私の仲間が取り上げているためそのリンクを共有しておこう。

1. 責任と格差
本来的には、責任は行為者ではなく事象に対して使うべき言葉である。殺人犯が収監されるのは、殺人という事象に対する責任を殺人犯がスケープゴートとして負っている(負わされている)と考えることができる。ナチスドイツの行ったホロコーストの責任をナチスドイツがスケープゴートとして負い、さらにはナチスドイツとほとんど何の関係もない後世のドイツ国民にその責任が転嫁され続けている。社会一般には、「責任者」はスケープゴート役であると認識して差し支えないだろう。
格差のない社会はありえない。優れた容姿、優れた頭脳、優れた身体能力……。このようなわかりやすい格差をなくそうとすると、それでも埋まらない小さな格差が顕在化し、それに人々は苦しめられるだろう。それでは、格差は全面的にいけないものなのだろうか。最近は人の容姿を重要視するルッキズムがよくやり玉に挙げられる。大学や国際大会のミスコンは容姿だけでなく内面を評価する総合型選抜のような方式にシフトしてきている。また、就職活動で企業が求める履歴書から顔写真や性別欄が削除されることもルッキズムを批判するpolitically correctな活動と考えてよいだろう。
それでは、学力や学歴の格差はどうだろう。子の学力は親の影響を受けやすいということが知られてきている。たとえば東京大学の学生生活実態調査によれば、70%以上が世帯年収750万円以上の家庭出身である。厚生労働省の国民生活基礎調査によれば、児童(18歳未満で未婚)をもつ世帯の平均所得はおよそ750万円であり、東京大学に通う学生の親の多くは平均以上の収入を得ていると解釈できる。

環境要因によって学歴競争に有利な人がいて、高学歴を有する人が高収入の仕事に就きやすいという事実について、そのような社会は正すべきであるという意見は考えられるが、この事実そのものを否定することは難しいだろう。学歴や収入の格差については、容姿の格差よりも正当化しようとする人が多いように見受けられる。平原依文が述べたような学歴ではなく経験を重視せよ、という主張も見られるが、これは格差解消には結び付きにくいという反論もある。

ここで、ルッキズムを批判する人が学歴や収入の面での勝者であった場合は、自分に都合のいい格差を正当化し、自分に都合の悪い(あるいはそれほど関係のない)格差を正当化せず批判することになるだろう。正当化できる格差と正当化できない格差の両方が存在するとき、ある格差をどちらに分類するかは分類者が恣意的に決定できる。自身のイデオロギーに基づき正当化できるかできないかを決定することは問題ないが、その決定を社会一般にそのまま適用するのが正しいと信じて押し付けることを是としてよいかについては、私は否定的である。容姿に優れるひとがミスユニバースを目指すのも、成績のよい人が高偏差値の大学に進学するのも、足が速いひとがオリンピックを目指すのも、生まれ持ったものおよび努力による積み上げを表出しようとしているだけである。当然ながら容姿に優れない人、成績が悪い人、足が遅い人もいる。現代社会はたまたま、学歴や収入がその人の所属する社会階層に大きく影響しているが、時代が異なればマンモスを狩るスキルや面白い小説を書くスキルが重要視される(正当化されやすい格差)世の中だったかもしれない。
ノブレス・オブリージュは法的な義務ではないが、富裕層や権力者(“持つ者”)が果たすべき社会的責任と認識されていた。いわゆる階級社会ではノブレス・オブリージュが平民(“持たざる者”)の不満の爆発を防いでいたといえるかもしれない。日本は、少なくとも一億総中流と言われて以降は表向きは階級社会ではないことになっていると考えている。しかし、親の学歴や収入が子にも影響し、ある程度階級の再生産が行われていることがわかってきているため、事実上は階級社会と考えて差し支えないだろう。表向きは階級社会ではないため、ノブレス・オブリージュを社会の勝者に求めても「健全な競争の結果である」として退けられるだろう。そのような「社会的責任」など最初からなく、後から作られたものであるから、そのような責任を感じなくともおかしくはない。もし社会の勝者が「社会的責任」を果たし始めると、そちらの方が問題になると思われる。社会の敗者(被害者)は、宗教などの力も借りながらも辛い状況を必死に生きている。人生全体が善行を積んで極楽浄土へ行こうとする修行であると考えてもよいかもしれない。そんな中で、社会の勝者の
「私だってつらい状況にあったのだ(弱者性、被害者性のアピール)」
「そんな私でも結果を出すことができた(結果を出せない敗者たちを否定するかのような言説)」
という主張を敗者が見ると、階級再生産の恩恵を受ける有利な状況にいながら、私たち敗者から被害者性等まで奪うのか、という批判は成立しうるだろう。また、
「私たち勝者が受けた恩恵を社会に還元します」
としてシンプルに社会的責任を果たすならば、ノブレス・オブリージュの再来、つまり階級社会の存在が表に出てくることになる。いずれにせよ、社会の敗者にとっては厳しい状況である。社会の勝者は生まれながらに有利で、なおかつ悪者であった方が、敗者の自分が必死に生きていくことが道徳的な修行であるかのような美しさを感じることができる。勝者が社会的責任を果たすことは、社会ではなく勝者自身のために行う活動と意味に変質し、敗者は多少のおこぼれをもらったとしても自分自身の弱者性や善性が侵害され、精神的にはより大きなダメージを受ける可能性がある。

2. 多様性
上でルッキズムに触れたところから、多様性について考える。社会全体に多様性の重要性を広めるときに必ず問題になることは、個人や組織の考えにそぐわない性質の存在をどこまで受け入れるか、際限なく広がる多様性をどこまで認めるべきか、ということである。
人の容姿を重要視する考えと重要視しない考えのうち、どちらかが正しくどちらかが誤っているということはない。容姿で勝負したい人はミスコンに出場し、容姿を評価したい人は審査員を務めればよい。容姿を重要項目とすることに合意している集団に対して、「容姿だけで判断することはけしからん」と介入することは的外れである。
日本は入学試験でペーパーテストの点数のみを評価しており、そのやり方は古い・時代遅れであって、海外の総合的な選抜の方がよいと主張する人がいる。一応データを参照すると、文部科学省の「令和3年度国公私立大学・短期大学入学者選抜実施状況の概要」によれば国公私立大学の入学者全体のうち総合型選抜で入学しているのは12.7%である。国公立大学が5%前後であるのに対して私立大学では14.7%である。私立大学の入学者数の多さが全体の割合にも影響している。海外の総合型選抜はルール上富裕層の子供が有利であることが明らかになっており、日本の試験制度が海外よりも劣っているという主張のすべてが認められることはないと考えている。海外の試験制度が優れているというより、海外の有名大学が採用している試験制度に総合型選抜が多いのだと解釈しておきたい。

ペーパーテストであれ総合型選抜であれ、選択できるなら自分が最も有利そうな土俵を選ぶだろう。それで特に問題は生じないはずだ。どの選抜方法も評価項目が恣意的に選択されているという点では変わりない。評価項目以外を評価しないという差別を行っていると言ってよい。むしろ複数の選抜方法があることで多様性が保証されていると主張してよいのではないだろうか。自分の性質を社会へ還元する、社会的責任を果たす方法もまた複数あってよい。
多様性を好悪の軸で語ることは問題ないが、善悪の軸で語ると問題が生じる。好悪とは存在自体は認めつつも、自分の芯としていくつかを選択し、他人がどの多様性を重要視してもよいと考えることである。一方で善悪とは悪と判定したものの存在を抹消しようとするものである。善悪の軸は多様性の種類が減らされる考え方である。この矛盾に気がつかない人が多いように思う。

3. おわりに
会社員として仕事をしていると、何かの仕事の後ろには必ず誰か責任者がいることになっていることがわかる。責任者とは責任のスケープゴートである。これを理解していると、責任者自身が責任を負っていると考えなくてよい構造であるから、気軽に頭を下げることができる。問題が発生したときに「何が原因か」ということと「何が・誰が責任を取るべきか」ということは全く別の論点であるが混同されやすい。原因究明や再発防止以上に責任者の減給等をすることが責任を取ることとして必要なのか。虚構や責任について折に触れて考えてみたい。

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