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平和について漠然と考えていたら、「人間とはどのような存在か」という問いにたどり着いた。

ウクライナ情勢、イスラエルとハマスとの武力衝突など、世界での争いは収束に向かう気配がない。「人は微力だが無力ではない。」という言葉を信念に持ってはいるものの、折に触れて、自らのちっぽけさを自覚します。なんとなくやるせない想いを抱えながら、少しでも何かできることを探すために学びは続けています。池上彰氏の『新・世界から戦争がなくならない本当の理由』では、地政学や歴史学の知見を踏まえながら戦争がなくならないメカニズムについて詳しく解説されていました。ふとあることに気づきました。それは、いつだって戦争を始めるのは「人間」であるという、非常に当たり前のことです。では、戦争を始めてしまう人間とはどのような存在なのか、この問いに向き合うことが一個人として戦争と向き合うことにつながる、また、それだけではなく世の中にある社会問題と向き合うことにもつながるのではないか、そう考えました。今回は、「人間とはどのような存在か」という問いに対し、「愛」「希望」「理性」という三つの観点から、参考とした書籍や歌詞の引用も踏まえながら私の考えを述べさせていただきます。

◇愛という観点


Mrs.Mrs.GREEN APPLEさんの「ロマンチシズム」という曲にこのような歌詞があります。

愛を愛し 恋に恋する
僕らはそうさ 人間さ
愛裏返し 故意に恋する
奴らもそうさ 人間さ

Mrs.GREEN APPLE「ロマンチシズム」


この歌詞に出てくる「奴ら」とは、自分たちとは分かり合えない存在だと勝手に解釈しました。(Mrs.さん、すみません)
言葉や文化、根本的な価値観が異なり分かり合うことが極めて困難な人々も自分たちと同じ人間である。すなわち、心を持ち、大切なものを持ち、強さと弱さを持ったかけがえのない人間であるということです。人間の表面的な部分は面白いほど違っています。でも、人間の核となる部分、人間として願いや生き方については共通していることもあるのではないかと考えます。「人から愛されたい」「人を愛したい」「理想の自分になりたい」「不当に生命を奪われたくない」「不当な恐怖や苦痛、悲しみを味わいたくない」…。

私たち人間は結局は同志なんだよな〜と頭では理解できます。(ただ、心で理解することは簡単ではないですよね。)でも、「私たちは同じ」という視点に立つことは、「感情で相手をやっつける状態」から「一歩立ち止まって冷静に相手を捉える状態」へと切り替えるギアのような役割を果たせるのではないかと考えます。

また、エーリッヒ・フロムさんの『愛するということ』と言う本にこのような言葉があります。

愛とは、特定の人間に対する関係ではない。愛の一つの「対象」に対してではなく、世界全体に対して人がどう関わるかを決定する態度であり、性格の方向性のことである。もし、ひとりの他人だけしか愛さず、他の人々には無関心だとしたら、それは愛ではなく、共棲的愛着、あるいは自己中心主義が拡大されたものに過ぎない。

エーリッヒ・フロム『愛すると言うこと』

「愛は地球を救う」という言葉が24時間テレビで使用されていましたが、確かに愛は平和を築く大切な要素になるかもしれません。あらゆる人を愛すると言う「博愛の精神」を持つことは極めて難しいことだとは思いますが、まずな身近な他者に関心を持つことは意識次第で今からでもできます。そのような他者への関心を持ち続けることが、人に関心を持つという「人に対しての姿勢」につながり、愛の総量を世の中に増やすことができるのではないかと考えます。

◇希望・理性という観点

私の座右の書に『夜と霧』『それでも人生にイエスと言う』(いずれも、V・E・フランクル著)の2冊があります。これは、精神科医であるフランクル氏の体験を踏まえて、「人間とは何か」「人間の存在価値は何か」という哲学的な問いに対しての考えが述べられた内容となっています。フランクル氏は、第二次世界大戦でナチスによるユダヤ人迫害の被害を受けた1人です。地獄のような強制収容所で生きる意味や希望を見出しながら生きられた方です。
強制収容所で亡くなってしまった人の多くは、「未来に希望を持てなくなってしまった」という特徴があったそうです。それでも人間は未来に希望を見出すことで力強く今を生き抜くことができる、そのことも本書を通じて学べました。

自分を待っている仕事や愛する人間に対する責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。

V・E・フランクル『夜と霧』

そして、人間には理性があります。正義について考える力があります。第二次世界大戦の頃、「優生思想」という、特定の人種や民族、性別、生産性などで生命の軽重をつける考え方がありました。(現代でも残っている根深い問題です)
『それでも人生にイエスと言う』という本の中に、「生産性の低い人間は生きる価値があるのか」という非常に重々しいテーマの話がありました。

いずれにしても、全体の利益を守る国家は、そのようなきわめて「非生産的」な個人の負担から、共同体を開放しなければならないと考えられる。そういう人間は、健康で生活能力のある人の分までパンを食べるだけなのだ。

V・E・フランクル『それでも人生にイエスと言う』

これに対して、フランクルは多くの反論をしていますが、私が大切だと思ったことは以下の内容です。

社会の役に立つということは、人間存在を測ることができる唯一のものさしでは絶対にないということです。

家にいて、ほとんど歩けず、窓ぎわの肘掛け椅子に座って、うつらうつらしているおばあさんは、たいへん非生産的な生活を送っています。それでもやっぱり、子どもや孫の愛情に囲まれ包まれています。このような愛情に包まれてこそ、うちのおばあちゃんなのです。うちのおばあちゃんである彼女は、このような愛情に包まれて、代理不可能でかけがえのない存在なのです。まだ職業を持って仕事をしている人が、共同体に関与する行ないで、代理不可能でかけがえのない存在になるのとまったく同じことなのです。

V・E・フランクル『それでも人生にイエスと言う』

「生産性」という観点だけが人間の存在価値を測るものさしではない。ものさしはいくらでもあり、全ての人間は代理不可能でかけがえのない存在である。このような考え方を持つことができれば、優生思想に対抗することができます。人間には正義を実現するために粘り強く考え抜く強さ、「理性」があります。
(もちろん、「正義とは何か」という問題もありますが)

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今の社会のあり方や争いについて根本から考えるためには、「人間とはどのような存在なのか」を考えることが大切だと感じました。1人でも多くの人が人間理解を図ることが、これからの人間社会をより良くするための土壌になっていくと考えます。私も引き続き学び続けていきたいです。

本記事で紹介した書籍一覧(非常におすすめですので、よろしければご一読ください!)


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