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生きることの本質

悟るということ

今週も小林秀雄全集を読んでいます。ついに『本居宣長』のところまで来ました。小林の物言いは変わりませんが、引用で古語が出てくるので、より難解になってきています。自分にはわかるのだろうか? と不安になることも多々あります。でも、わからなければわからないでしょうがないし、でも、わかろうとしないことには始まらない。そんなことを考えながら、読み進めています。

ここのところ、哲学関連の本を読んでいると、悟性というような言葉はよく聞くのですが、日本には仏教用語としての「悟る」という言葉がありますよね。でも、不思議なことにこの言葉は仏教用語なのに、広く一般にも使われている。子どもから大人まで。仏教の言う、悟ると、一般の人の言う、悟る、というのはもちろん違うものなのでしょうが、でも、その悟るということをなんとなくでもわかってしまっているというところは面白いなと思うのです。それでなければ、その悟るなんていう言葉は使えないのですから。意味がわかるから、使うことができる。その浅深はあったとしても、でも、使えてしまう。日本人には小さな頃からそれを体得するきっかけみたいなものがあるのでしょう。

でも、言葉の意味を知っているからと言って、それができるわけではありません。わかる、わかった、気づいた、というのは一種の悟りのようなものではないかと僕は思います。人は気がつかないうちに真理と出会ってしまう。ふとした瞬間に真理と出会ってしまうものなのです。だって、真理は僕たちの中にある。もっと言えば、真理は僕たちだから。当たり前のことですが、みんな真理は遠いところにあるようなイメージ、修行して遂に得られるかどうかわからない。そんなイメージを持っている人が多いのではないかと思いますが、でも、真理があるから、今があり、自分が存在していることを思えば、真理はそこらじゅうにあるというか、僕たちは真理と共に生きているのです。ただ、それが言語化できなかったり、いつもは感じられなかったりするだけで、でも、間違いなく真理はここにあるのです。なぜなら、真理もまた言葉ですから。

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