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わかるけどわからない。だからこそ、問うのだ。『レンマ学』(中沢新一)

中沢新一氏の『レンマ学』という本。何となく言いたいことはわかるけど、でも、その構造はわからない。このもどかしさ。「レンマ学」ということで、中沢氏はこれを一つの学問として立ち上げようとしているので、たった一回読んだだけでわかってしまうなんてことはありえないのであるが、それでも、何となくわかるけど、わかるから興味が湧くわけで、でも、やっぱりわからないところが多々ある。このもどかしさ。どうして人はわからないということまでわかってしまうのだろうか。

学問という言葉は、問い、学ぶと書く。まさに問いなさいと。何を問うかということが問われているのである。そのわからないところの何を問うか。たしかに問いは無数にある。その中で何を問うか。そして、問うた時にはすでに答えはあるのだ。なぜなら、問えるということは答えがなければそれが成り立たないからである。学問というのはまさに問うことであり、学ぶということはまさにそのパラドックスのど真ん中を探索するようなものではないだろうか。

学生の頃は特に勉強が好きというのはなく、親が言うから、大学に行くために勉強をしていた。時には好きな分野みたいなものがあったり、いい点を取ると嬉しいというのもあったが、でも、これを探求したいというものは学生時代の中ではみつからなかった。それでも、大学受験に失敗し、第一希望の国立大学に行けなかったことで、滑り止めに受けた興味がある学科の大学に行けたことは、よかったのではないかと思う。たしかに国立大に行けた方が、その後の人生はうまく進めたかもしれないが、でも、少しでもより興味のある方に行けたことが、大学を卒業してから約20年経った今少し役に立ってきている、役に立ってきているというかつながってきていることを感じられるようになったということもまた不思議である。僕が学んでいたのは臨床心理学なのである。中沢氏は臨床心理学者の河合俊雄氏とも交流が深く、一緒に共著で本を出している。そもそも、中沢氏を知ったのは、日本を代表する心理療法家河合隼雄氏の本を読んで知ったのだ。かなり昔に書かれていた本で、今まで興味関心を持つことなんてなかった。仏教と心理学なんて、その当時でもその共通項を見出そうとしている人はほとんどいなかったのではないだろうか。

そして、なぜか今になってとても興味が湧いている。曲がりなりにも学生時代に臨床心理学を勉強し、そして、昨年からは哲学なんかにも興味を持って本を読み、そして、仏教の必要性、有用性なんかを感じる中で、そこが交差していく。興味のあることをただたどってきたらこの道だった。自分はなぜだか知らないけどそういう道を選んで歩いているのではないかと感じる時がある。その道はちゃんとつながっていてこれからもつながっているのだと。

わかるけどわからないものへの挑戦が始まる。わからないことをわかるようになることはとても大変だ。めんどくさがり屋の僕としては、誰かが勝手にまとめてくれて、わかりやすく世の中に出してくれて、それが読めて、わかった気になれれば基本満足なのであるが、これから立ち上げろうとする学問を先取りすることはできないし、一生かかっても学べるかどうかもわからないくらい広大な学問のような気がしている。そりゃあ、過去の大天才たちでも、その生きている時に築けなかったことをやろうとしているのだから、簡単ではないというか、そもそも可能かどうかもわからない挑戦なのである。それをやろうとしている中沢氏は本当にすごいし、やはり彼も天才であるが、そんな学問に惹かれてしまう自分もいて、ああ、結局この道か、と思ってしまうのである。でも、その道は面白い。まさに未知。だからこそ面白い。冒険は未知の中にしかない。こういうことに興味を持ってしまう自分の魂の癖を恨むこともあるけれども、でも、そうとしかできない自分のそうとしかならない道をいかに楽しむことができるか。そして、それが人生を味うことではなかろうか、と歳をとるにつれてわかり始めている自分がいる気がする。

自分の人生があと何年あるかわからないけれども、でも、挑戦せずにはいられないのだ。それがある意味で生きるということだから。人生というものも結局わかるけどわからないのだ。そんなわかるけどわからないことを日々考えながら、今日も生きるのだ。そんなわかるけどわからないというその不思議を味わいながら。

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