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創作の秘技

ドストエフスキーという男

今週は、引き続きドストエフスキーの『白痴』、『小林秀雄全作品(10)』、『柳宗悦全集』を読んでいます。ドストエフスキーの作品は、『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』を読んだことがあり、この前同じロシアの作家トルストイの『アンナ・カレーニナ』を読みましたが、小林秀雄の本も読んでいることもあり、やっぱりドストエフスキーが気になるので、代表作くらいは全て読んでみたい取り掛かってます。

ドストエフスキー(1821―1881)は、

ロシアの小説家。トルストイと並んで19世紀ロシア文学を代表する世界的巨匠。「魂のリアリズム」とよばれる独自の方法で人間の内面を追求、近代小説に新しい可能性を開いた。農奴制的旧秩序が資本主義的関係にとってかわられようとする過渡期のロシアで、自身が時代の矛盾に引き裂かれながら、その引き裂かれる自己を全的に作品世界に投入しえた彼の文学は、異常なほどの今日性をもって際だっており、20世紀の思想・文学に深刻な影響を与えている。[江川 卓]
(日本大百科全書(ニッポニカ) より)

作品は読んだことはなくても、その名前を聞いたことのある人は多いのではないでしょうか。いわゆるリベラルアーツ・教養に関するおすすめの本にはいつもドストエフスキーの本が取り上げられている印象があります。

僕はあまりその生い立ちや歴史的な背景のことには詳しくはありませんが、初めてドストエフスキーの本を読んだ時に、「こんな作品を人間が書くことは可能なのか?」ということに驚きました。どうやったらこんな作品、それこそ、主人公の心情を表現することができるのだろうか、と思ったのです。

ドストエフスキーの経歴を調べるとたしかに彼の過酷な人生経験がそれを生み出しているのでは、と思います。でも、それが必ずしも小説に反映されて、あのような作品として昇華される。ある意味では、あんだけの経験をしていれば書けるよね、と一瞬思ってしまうけれども、でも、果たして経験したからと言って、本当に書けるものなのか? というのを僕は疑問に思うのです。

たしかに、その生の経験があったことは小説にも反映されていることは間違いないでしょう。でも、それだけでは、作品にはならない。ましてや古典と言われるような、その人が死んでからもいまだに読み続けられる普遍的な作品になるなんてことなんてあり得ない。じゃあ、一体何が、そうさせているのか。この作品には、この作者には、何があるのだろうか?

そんなことを考えるのも面白い。作品の面白さを考えるとともに、だんだんとそれを書いた人にも興味が湧いてくるのです。人物評論みたいなことはほとんど僕は書いたことはなかったし、書きたいとも思ったことはなかったけれども、でも、こういう人に出会ってしまうと、やっぱり気になってしまう。それはただ作品を読むというだけではなく、その人の人生を知りたくなる、その人と対話をしたくなる。それが形になったものが評論というものであるならば、そういう表現方法もありなのかな、と思うようになってきました。

今は哲学の巫女池田晶子について、一冊書いてみようかなと思って取り組んでいます。このメルマガでも散々彼女の言葉を取り上げました。それだったらもうちゃんと一冊の本にしてみようかと。それじゃないと、先に進めないな、と思ったのです。

まさかそんな本を書いてみたくなるなんて思ってみなかったので、自分自身が一番驚きですが、人生にはそういうこともあるのでしょう。果たしてちゃんと本になるかどうかわかりませんが、お楽しみに。

ハワイの海

創作の秘技

創作というのは、何だって自由につくって構わない。例えば、小説であれば、どんな妄想の世界を描いても構わない。これまでにないような世界観を勝手につくったって構わない。そう思っていた。そして、そんな世界を描いてみたいと思ったけれども、でも、そんな作品をつくることはできなかった。何でも自由に描いていいはずなのに、全く描くことができない。『ハリーポッター』よりも面白いもっと壮大な魔法の世界を描いてもいいはずなのに、『ブレードランナー』よりも面白い未来を描いてもいいのに、それを創造することはできない。どうしてだろうか? 想像力は無限なのではないだろうか。人はどんなことでも想像することができるのでは?

でも、実際はそんなに簡単に何でもかんでも想像できないことを知る。自分の想像力なんて高が知れているということを知ってしまう。小説を書いてみるまでそんな当たり前のことにも気がつかなかった。僕たちにはこの身体があって、脳みそがあって、生きているのだ。精神だけをそこと切り離すことはできないのだ。僕たちは思いの外、身体を含めた経験というものに左右されているらしい。頭で考えることは自由だ。いくらでも自由に考えることができるなんて自惚れていた自分、何もわかっていなかった自分が恥ずかしいが、それを知ることができたのは今後の創作活動にとってよいことだったと思う。いつまでも自分の想像力を過信して、いつかはすごいものをつくってやるなんて思っているだけでは、一生しょぼい作品しかつくることができなかっただろうし、そもそも作品という形にはならなかったのかもしれないのだから。

これはただ自分の実力を知るということだけではなく、創作に関する秘技というとちょっと大袈裟だけれども、創作に関する真実なのではないだろうか、と思う。始めてドストエフスキーの作品を読んだ時、こんな作品を人間が書くことができるんだ! と驚いた。そして、彼の生涯を調べてみるとまたユニークな生涯である。生の体験が必ずしも小説に反映されるとは限らないが、でも、作品はその人の経験から逃れることはきっとできないのである。人が書くということはきっとそういうことなのだ。自分という器を通すからこそ、何らかの作品になり、この世に現れるということは、やはりその器としてのその人の影響を受けないわけはないのである。当たり前のことだけれども、でも、意外と気がつかないものである。きっと物書きの中にもこのことに気が付かずに書いて人もいるだろう。

その創作の秘技について、自分でそう思ったこととは別に、批評の神様小林秀雄氏もこう言っている。

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