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あきらめるということ

あきらめるということ

僕たちは自分であることしかできない。自分という人間に生まれて、自分という人間として育ち、自分という人間として死ぬ。とても当たり前のことで、誰もが知っていること。でも、情報にまみれて、ノイズまみれになっていると、自分というものを見失ってしまう。誰かが勝手につくった偽りの幸せを追い求めるようになる。もちろん、それはあなたの幸せでないのだから、そんなので幸せになることはできない。それもとても当たり前のことである。あなたはあなたなのだから、あなたが幸せになる以外に、あなたが幸せになる方法はないのである。いつからそんな当たり前のことを僕たちは忘れてしまったのだろうか。いつから周りと同じことが幸せだと思い込むようになってしまったのだろうか。

周りと同じであることが幸せだと思っているならば、もうあきらめるしかない。自分には自分のできることしかできないのである。どんなに頑張っても他人になることはできない。人と同じようには生きられない。いつ死ぬかもわからないのだから。
でも、それは裏返すと、あなたはあなたであることしかできないというあきらめは、あなたにしかできないことをやるということになる。それは、人が言う、使命とか、才能とか言うものではないだろうか。あなたにしかできないことなのだから、それはもうあなただけのものだ。どこにも探しにゆく必要はなかったのである。

そして、あなたはあなたとしてしか生きることはできない。死ぬまであなたとして生きるしかないのである。輪廻転生やあの世があって死後の世界や永遠があったとしても、あなたはあなたなのだ。永遠にあなたでいなければならないなら、あなたはあなたでいるしかないのだ。もし、死んだら終わり、無になってしまうということであれば、死ぬまで生きるしかない。どちらにしても、どこに終わりなんてあるのかわからなく、ずっとあなたはあなたとして歩み続ける必要があるのだ。だから、もうあきらめるしかない。あなたはあなたであるしかないのだと。

そんな当たり前のことがわかってしまえば、もうあなたはあなたとして生きるしかないのである。他人になることをあきらめれば、今回の人生は一回きりであっても、永遠であったとしても、もうやるべきことは決まっているのだ。あなたはあなたでしかありえないのだから、あなたにできることをするしかないのである。あなたは今のあなたで幸せにならなけらばならないのだ。

だからといって、幸せになることをあきらめる必要はなくて、あなたはあなたのままで幸せにならなければならないのだ。あなたが幸せになる方法はあなたしかわからない。あなたの幸せはあなたにしかわからない。たしかにみんなが幸せと言っている幻想を追いかけていることは楽だった。道はわかっているし、ノウハウもある。それを追いかけていればよかった。でも、それで幸せになれないから今迷っているのだろう。そこはもうあきらめるしかないのだ。楽して幸せを手に入れることはできないのだと。むしろ、幸せを手に入れるための道のりが、幸せを味わうことが人生というものなのだと、それに気がつくしかないのである。そして、自分を動かすしかないのだ。

この世界はあなたがあなたを通してみている世界なのだから。あなたが幸せをみたいならば、あなたが幸せに視点を合わせるしかないのである。テレビから幸せが流れてくることはないのだとあきらめるしかないのだ。

一回あきらめてしまえば、人生はとても楽だ。もう自分にできることをするしかない。周りがどうあろうとも自分が善く生きるしかないのだ。それに気がついたら、躓いてもまた歩いてゆける。自分の足でしか進むことはできないと知っているのだから。

あきらめる(明らめる)ということ

僕たちはいつまであきらめずに頑張り続けなければならないのか。いつまであきらめ続ければならないのか。あきらめたらそこで終わりなのか。それとも始まりなのか。あきらめるということはどういうことだろうか。

近藤麻理恵さんをプロデュースする世界的なプロデューサー川原卓巳氏はこう言う「自分自身以外になれないことをあきらめる」と。
そして、川原氏の自身のnoteでこう語っている。

"私は、人は覚悟で信頼され、弱みで愛されるようになれば「自分らしく生きていける人」になっていると考えています。
そして、自分らしく生きていける人の特徴は、「自分で生きていくという覚悟」を持っている点です。
”覚悟”というと「よし、するぞ!」と力むイメージが浮かぶと思いますが、私の思う覚悟というのは、ある種の”諦め”の感情も含んでいます。
諦めとは、自分以外の何者かになることはできないということです。"

そう。「自分以外の何者かになることはできない」ということをあきらめる。人は誰かに憧れ、何かに憧れ、それを追い求める。でも、どこまで行っても自分は自分でしかない。そして、ある時気がついてしまう。自分は自分でしかないのだ。自分以外の何者にもなることはできないのだと。

野球選手になれなかった自分。宇宙飛行士になれなかった自分。画家になれなかった自分・・・。生きていく中でいくつものことをあきらめて、それでも、また憧れをみつけては、追いかけて。一体いつまであきらめ続ければいいのだろうか。一体いつまで追い続けなければならないのだろうか。

世界的に有名なアニメをつくり続けた宮崎駿氏はこう言う。

"人間は生まれ落ちたときに「可能性」を失っているのである。"

あの希望に満ちた作品をつくり続けている宮崎氏がそのような考え方を持っていたということにとても驚く。そして、またこうも言う。

"子供は可能性を持ってる存在で、しかもその可能性がいつも破れ続けていくっていう存在だから"

だからこそ、

"「生まれてきてよかったんだよ」と言える映画を作りたい。"

失われた可能性を深く感じるからこそ、アニメづくりへの情熱が生まれたのだ。

人は可能性は無限だという。なりたいものに何でもなれるという。でも、僕たちは生きていく中で、その可能性が失われていくことをいつも感じている。高校受験、大学受験、就職・・・。僕たちはいつも選択を迫られている。そして、決して選択しなかった世界を生きることはできない。可能性とは一体何なのであろうか。この人生の不可逆性とは一体何なのだろうか。

それでも人は生まれたからには、死ぬまで生きなければならない。時間が経つにつれて可能性が失われ、そして、最後には死ななければならない。そこにどんな人生の意味があるのだろうか。

でも、だからこそ最後にはそうとしかできなかった自分が残る。その場面、場面で選択してきた自分が残っている。もうその時はそうとしかできなかった自分の選択の積み重ね。ある可能性を選択することは、ある可能性を失うことと知りながらも、歩んできた人生。そこに意味がないわけがない。そうすることしかできなかった自分こそが自分であって、それが自分なのだ。

それを認めることはとても辛いことだ。哀しいことだ。世の中の人たちは無限に生きるかのように、無限という可能性を信じている。でも、誰もが死ぬことは間違いなく、人生は有限(一回)なのだ。そこに無限の可能性なんてものがあるわけはないのである。

人が生き、死ぬという絶対的な事実がある中で、でも、そこに生まれて、そこに自分があるということ。逆に言えば、それ以上の可能性、奇跡というものはないのである。どうしてここにあなたはいるのか、どうしてあなたはそうとしか生きられないのか。どうして死ぬのに、あなたは生まれてきたのか。その意味を考えれば考えるほど、誰かの言うちっぽけな「無限の可能性」なんかよりも、あなたがあなたであることの方がよっぽど奇跡的なんじゃないだろうか。

あきらめるということは一見、可能性を失うこと。幸せをあきらめることと思ってしまうかもしれないがそうじゃない。自分が自分であること、自分以外の何者にもなれないと気がついた時、そして、そんな自分を生きると決めた時に、本当の意味での可能性が開けるのである。生きて死ぬ人生の可能性は無限でなくても、あなたの中にある自分の可能性は無限なのだ。

あきらめるという言葉は、「明らめる」でもある。それは、何かをはっきりさせる。明らかにする。という意味である。自分以外の何者にもなれないことを「あきらめる」ということは、あなたがあなたであるということをあきらかにすることなのだ。あなたはあなた以外ではないということをはっきり認識することなのである。

だから、あきらめることを恐れることはない。むしろ、そこから人生のほんとうが始まるのだ。

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