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「かなしみ」という言葉の意味を知るとき

どうして「悲しみ」なんていう感情があるのだろう。自分が「悲しい」ときは、苦しいのはもちろん、人が悲しんでいるとき、自分まで悲しくなってしまう。少しでも悲しみを和らげたいと思う。でも、次から次へと悲しみは訪れる。

どうすることもできない。生きている以上は避けられないもの。どうしてこんな感情があるのだろう。いっそ「悲しみ」なんてなくなってしまえば、もっと人は幸せに生きることができるのでは?
悲しみに触れると、そんな激しい感情が込み上げてくることがある。悲しみさえなくすことができれば・・・。

でも、なくそうと思ってもなくなるものではないし、なくすことができるものであれば、そもそも人間にそんな感情や機能なんて備わることはなかったのではないかとも思う。必要だからこそそれは在るのだと。そう考えたときに、「悲しみ」というのは一体なんなのだと。僕たちの人生にどう関わるものなのかと。

若松英輔氏の『悲しみの秘儀』という26遍のエッセイがある。その中に、僕が探し求めていた答えのひとつがあった。答えというよりは、言語化された言葉がそこには存在していた。そして、それに出逢えたことは、まるで生まれ変わることに等しいくらいの衝撃を与える。わからなかったことがわかるようになる。どんな小さなことでも、それは真理を得たということなのかもしれない。人は真理と出逢えたとき生まれ変わる。

なんのために「悲しみ」は存在していたのか。それを知ることによって、僕はこの先、悲しみと共に生きることができる。それはとても大きな変化だと思う。これまでは悲しみを排除しようとしていた。できるだけ避けようとしていた。でも、避けられないから余計に苦しくなる。考えれば考えるほど苦しくなってしまう。

でも、今は、共に歩むことができるもの、共に生きることができるものだと感じる。そう感じるだけで、もう悲しみは、今までの姿の見えない魔物ではなく、僕と寄り添う心を持つ小さな生き物のような感じがする。そう感じるだけで、人生はとても楽に生きることができる。

大袈裟な言い方、と思うかもしれないけれども、でも、これまでずっとずっとあった自分を苛むものから解放されたのだから、それくらい大袈裟に言わせてほしい。
そして、改めて言葉の力を知る。若松英輔氏の言葉の力は本当にすごいし、そして、言葉自体のその力、その美しさ、その偉大さを識る。たまたま手に取った本で、そんなことが起きるから人生は面白い。

「かなしみ」の意味を知るとき。きっと人は生まれ変わることができる。今の世の中にはあまりにも「悲しみ」に溢れているからだ。どこを見ても悲しんでいる人ばかり。でも、その「悲しみ」の意味、そして、「悲しみ」の先にあるものを知ることができれば、それを受け入れ、そして、また希望を持って生きることができる。

「かなしみ」は「哀しみ」であり、「愛しみ」であり、「美しみ」であるのだ。

最後は、この本の引用で締めたいと思う。

かつて「かなし」という言葉は、「悲し」「哀し」だけではなく、「愛し」と書くこともあった。先立つ者は、残された者の生を思い、「かなしむ」。それは、単なる悲嘆の表現ではなく、尽きることのない情愛の吐露でもあった。
 また、古人は「美し」と記されたときも「かなし」と読んだ。悲しみの奥にある真の美を、古人は見過ごすことはなかったのである。

『悲しみの秘儀』若松英輔

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