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『白本 五』 問答の秘儀を垣間見ることができる本

高城剛さんの新著『白本 五』を読みましたので、その感想を。メルマガで読んではいるけれども、でも、改めて読んでも面白いですね!! まさに問答の不思議であり秘儀なのではないかと思います。

Q&Aというのは不思議なもので、問いと答えというその「形式」を人が求める不思議を感じます。そして、自分ではない誰かの質問のはずなのに、その答えは、自分のためにあるのではないかと感じたことがあるのは、僕だけではないでしょう。

どうしてそうなのか? と考えると、「読者のみなさんは僕のなかの一部なんです」と本書にあるように、読者である僕も、きっと高城剛さんの一部であり、読者のみなさんの一部でもあるのだと思うのです。だから、誰かの質問も、自分の答えとなって返ってくる。不思議ですね。

個人的には高城剛さんのメルマガのQ&Aコーナーが好きで、それがあるからもう何年もずっと読者で居続けられているというのはあるかもしれません。時には僕自身も質問させていただき、そして、メルマガの中で回答をいただくこともあります。それがまた未来につながり、新しい質問が生まれてくる。質問は尽きませんね。どうして質問というものが生まれてくるのでしょうか?

きっと人類が生まれてからずっと問い続けてきたのでしょう。問答というのは、歴史を振り返ってみてもずっとありますよね。なぜ人は問うのか? それはただ知りたいという気持ち以上のものがあるような気がします。インターネットでなんでも検索できるようになった時代においても人は問うことを止めません。むしろインターネットがそれを助長したのでは? とも考えられますが、個人的にはそうではないと思います。問うというのは情報を得たいということとは少し違うと考えるからです。

人はただ情報を知りたい、これは欲求に近いものがありますよね。でも、識るという字が、知るとは別にあるように、本質を識る。これは、想像する、考えるということでもあると思うのです。そのために人は問う。ということはどういうことになるのでしょうか。考えるために人は問うというのはパラドックスみたいな感じですが、でも、きっとそうなのではないかと思うのです。答えがあるから問うのか、問うから答えがあるのか。さて、話が本からだいぶ外れてしまいましたが、でも、問うという根源的な行為はとても尊いものだと思うのです。でも、問うには、相手が必要です。それは時に自分であることもあります。何を問うか? というのはとても重要ですが、もう一つ重要なのは、誰に問うか? なのではないかと思うのです。当たり前のことだと思うかもしれせんが、いつもあなたは誰に問うているでしょうか? そもそも本気で問うことができているでしょうか? 問うより先にこの人には問うてもわからない。もしくは、問うても大体なんて答えるかわかってしまうから問わない、なんてことも多いのではないでしょうか。だから、高城さんに問うてしまう。彼ならきっと「わかってくれると思うから」。じゃあ、何をわかってくれると思うのか、それは一見「自分の気持ち」だと思うかもしれませんが、まず彼はきっとその問いをわかってくれる。そして、その問いをわかってくれるということは、その答えがわかっている。でも、それをその問う人がわかっているということは、きっと問うている人は最初から答えがわかっているはずです。これも論理のパラドックスですが、そもそも答えがないものを問うことはできないのです。だから、Q&Aは面白い!!(と思っているのは僕だけでしょうか)

こうやって問うことができる相手がいるというのはとても有難く、尊いことだと思います。まだまだ彼のように利他的に生きることはできてはいませんが、彼に問い続けられるように、自分を磨いて行きたいと思いました。素敵な本、そして、いつも素敵な問いと答えをありがとうございます。

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