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生きる意味は無い 『未来のルーシー 人間は動物にも植物にもなれる』中沢新一・山極寿一

『未来のルーシー 人間は動物にも植物にもなれる』中沢新一・山極寿一

人類学者中沢新一、霊長類学者山極寿一の対談本。話は哲学者西田幾多郎や生態学者今西錦司などに及びそして、人類学はもとより、考古学、宗教学、生命科学、AI…と非常に広範囲な話となる。しかし、それらを横断的に語られることが本書の本質ではないだろうか。最後の方では中沢新一氏の「レンマ学」の話へと進んでいき、「華厳的進化」という言葉が現れる。レンマ的知性の観点から日本の知性を振り返りながら、今後の未来を模索する。

特に印象に残ったのは、数学者岡潔の理論が松尾芭蕉の俳句、つまりは東洋思想に似ているということを引き合いに出して話をしているところで、

山極 似たような話ですが、しばしば「生きる意味」ということが言われます。今西さんの自然観だと、「生きる意味」なんてないでしょう。自然というのは意味を持たないですから。西洋的な、因果論的に人間の行為や自然の現象を読み解こうとする思考の結果、初めて「意味」というものが出てきます。いま多くの人が「生きる意味」が無いと困っているわけです。そんなものは探さないほうがいいと私は思います。いま中沢さんがおっしゃった「秋深し 隣は何を する人ぞ」というのはまさに意味を消しているのですね。お互いに感じあって、みんなで共有し合うことの深さ、楽しさというものが、まさに生そのものであるということ。そこにはお互いに干渉しあわないけれど、お互いの存在を感じあえるような共存が語られています。
『未来のルーシー 人間は動物にも植物にもなれる』中沢新一・山極寿一

「『生きる意味』なんてないでしょう」と、それを芭蕉の俳句と照らし合わせているところが非常に面白い。僕は芭蕉のことも詳しくなければ、生態学にも詳しいわけでもなく、数学に詳しいわけでもない。しかし、この芭蕉の俳句から感じられるものがあり、そして山極氏の解釈も非常によくわかる感じがするのである。きっとそれは僕だけではないだろう。日本人の多くが言語化できていなくてもそのことを感じることができるのではないだろうか。きっとそういうことを感じながら生きているのではないだろうか。だから、江戸時代が終わって西洋化が始まってから何百年経っても、日本は完全に西洋化されることはなく、根底にこの松尾芭蕉の俳句のような感覚が今も残り続けているのではないだろうか。

だからこそ、「生きる意味」を探しても、見つからなくて困ってしまうというパラドックスに陥っている人がいるのではないだろうか。「生きる意味」なんてない、という考えの方が実は日本人にはしっくりとくるのかもしれない。ただそれが今はなんでも西洋的に考える癖がついている中で、それをうまく処理できていないから混乱するのであり、もともと日本人の根底にある考えに戻れば、ちゃんと落ち着くのではないだろうか。

芭蕉の俳句で生きる意味について語ること、語れることがまさにレンマ的知性だなと感じるのである。

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