『ゆきゆきて、神軍』感想

注意1:ネタバレがあります
注意2:とても長いです

『ゆきゆきて、神軍』とは


『ゆきゆきて、神軍』は、今村昌平に促された原一雄監督が無政府主義者・奥崎謙三を追ったドキュメンタリー映画である。

 あらすじ:苛烈を極めたニューギニア戦線で奥崎の所属した部隊のうちの2名が「敵前逃亡」の罪で銃殺されたが、それは終戦から23日後のことだった。奥崎は処刑された兵士の遺族とともに(同行を拒否されてからは遺族の偽物を仕立てて!)当時の上官をひとりひとり訪ね、時に暴言を吐き、時に暴力に訴えながらこの射殺事件の真相に迫っていく。映画後半では、同部隊で発生した「くじ引き謀殺事件」を通して大日本帝国軍の暗部が晒される。

奥崎謙三という人物


 彼の街宣車に大きく書かれた「田中角栄を殺すために記す」「宇宙人の聖書?」などの異様な文言からも分かるように、奥崎は明らかに常軌を逸した人物である。彼は以前にも、一般参賀の際、バルコニーの天皇に向かってパチンコ玉を放ち、百貨店の屋上から「天皇ポルノビラ」を撒いて逮捕され、その裁判の折には検事と判事に唾を吐き小便をかけた、という。

神軍平等兵


 奥崎は語の正しい意味での確信犯であって、だからこそ日本国憲法や刑法には従わない。彼が従うのは「神の法」である。この「神」は「完全なる平等」の実現のために家族から国家に至るあらゆる共同体を粉砕せんとする荒ぶる神であり(そのことは作品冒頭の活動家の結婚式のスピーチで奥崎の信条として明言される)神の法は他のあらゆる法を超越する。なぜなら、神の法がそのような位置にない限り「国家」や「天皇」そのものを裁くことはできないからだ。奥崎はこの神が率いる軍の神兵「神軍平等兵」として元上官たちを追い詰めていく。

祟り神


 奥崎が信奉する神とは(それが本当に神だとすれば)戦争によって生み出された禍々しい「祟り神」に他ならない。この恐るべき神は奥崎に祟り、奥崎の妻シズミに祟り、戦友とその遺族に祟り、元上官らに祟り、原一雄監督に祟り、警察に祟り、天皇に祟り、ついに日本という国家に祟るのである。そしてそのとき神軍とは、飢餓と疫病で地獄と化した戦地で無残な最期を遂げた兵士たちの怨霊の群れである。奥崎は独立工兵隊第36連隊の戦友の墓を訪ね手製の供養塔を建てるが、そこには「天皇が始めた戦争」への呪詛とともに「怨霊を弔う」の文字が黒々と記されている。奥崎は戦友の怨霊に取り憑かれた男、いや、怨霊そのものなのだ。

 部下射殺を指示したとされる古清水中隊長と奥崎との印象的な会話がある。部隊にまだ少しは食糧があったころ、食事を前に腹を減らした兵士たちに対して(そんなことをすれば余計に体力を消耗するのが分かりきっているのに)古清水は軍歌を歌うよう命令したという。この命令は完全に無意味であり、無意味であるだけに一層グロテスクだ。奥崎はぎらぎらと眼を輝かせて、このとき古清水を憎悪した、と吐き捨てる。

天罰


 祟り。奥崎自身は祟りとは言わず「天罰」という。奥崎が不動産業者を刺殺したのも、赤線に行って妻を悲しませたのも、山田元軍曹が何度も手術が必要なほどの大病を患うのも「天罰」だ。天罰を被った彼らにとって、贖罪の方法はひとつしかない。それが口にするのも憚られるほどおぞましいことであっても、自らをどれほど傷つけ苛むものであっても、戦争の真実を包み隠さず証言し、後世に伝えることである。それが神軍平等兵に課せられた使命だ。そして奥崎は、その使命遂行のためには手段を選ばない。神の法の名の下に、罵詈雑言、暴力、遺族の替え玉、あらゆる手段が正当化される。

奥崎のロジック、戦争のロジック


「くじ引き謀殺事件」の真相を知る山田元軍曹の自宅に自身の妻と処刑された兵士の兄(偽物)を伴って現れた奥崎は、当初は真相を語るよう粘り強く山田を説得するが、山田の口から出た「靖国」の言葉に逆上し、土足で座敷に上がり込んで術後で体の効かない山田に暴行を加える。観念した山田は重い口を開き、組織に疎まれた兵士が殺されて食糧にされたというおぞましい事実を語りはじめる。

 山田を負傷させた奥崎は自ら救急車を呼び病院へ付き添うが、病院から出てくると「私は世の中の為になる暴力であれば、どんどん活用していきたい」と晴れ晴れとした表情で語る。しかし「大義による暴力の正当化・肯定」とは言うまでもなく「戦争をする側」の論理である。戦友を弔い続け、永遠の平和と平等を理想としながら、大日本帝国軍と同じロジックで暴力を振るう。この自己矛盾こそが奥崎謙三のコアである。

 映画の撮影中、奥崎は原監督に「古清水を殺害する決心をしたのでその様子を撮影してほしい」と申し出たという。原が迷いながらも断ると、奥崎は映画はやめる、フィルムは全部燃やしてくれ、と言った。その後奥崎は実際に古清水殺害のため自宅を訪れたが本人は居らず、代わりに偶然居合わせた古清水の息子を改造拳銃で撃って殺人未遂で逮捕される。もちろん息子は全く無関係であり、ことここに至っては大義も正義もあったものではない。ここにあるのは制御を失って暴走する憤怒=狂気のみである。

奥崎の顔


 原一雄監督は顎の骨が極端に張り、目の落ち窪んだ奥崎の顔を「戦争が貼り付いたような顔」と形容する。

発狂した世界で


 補給路を断たれた極限状態のニューギニア戦線で、奥崎謙三にとっての世界は、おそらくそのとき「発狂した」のだ。そして戦後40年近く経っても世界は相変わらず狂ったままであり、つまり戦争は全く終わっておらず、奥崎は未だ彼の戦争を戦い続けている。そしてあるとき(おそらく独房の中で)彼は、狂った世界に真正面から対峙する唯一の方法が「自ら狂う」ことであるのを発見する。かくして「神軍平等兵・奥崎謙三」が誕生する。

 だから、戦争の狂気と奥崎の狂気はイコールだ。そして、終戦後の社会に即座に適応できてしまった人々の狂気とも、日常の中でこんなにも簡単に戦争を忘れてしまえる僕の狂気とも、イコールなのだ。

 いや、本当はそうではなく、実のところ戦争は2022年の今も終わってなどいない。パレスチナで、イスラエルで、ウクライナで、ロシアで、アフガニスタンで、北朝鮮で、台湾で、奈良県の小さな駅前の広場で、いや、あらゆる国のあらゆる場所であの戦争は果てしなく続いている。僕たちが「終わったふり」をしている間にも世界は狂い続けまた誰かが怨霊となり、祟り神はいつも僕や君の隣でぎらぎらと憎悪の瞳を輝かせ続けているのだ。

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