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物語とはパクリの組み合わせでできている

 「物語とはパクリの組み合わせでできている」

 なぜそんなことにふと気付いたのか。まずは昔の歴史に登場するサルゴンという男の話から始めたい。

 今からおよそ四千年以上前、紀元前二千三百三十四年頃、現在のペルシャ湾周辺で生まれた文明・メソポタミアの地で、人類最初の帝国が作られた。

 帝国の王に君臨したのは、メソポタミア南部の地方アッカドにいた、サルゴンという男。この男がメソポタミア地方全域からアナトリア半島西部(現在のトルコが位置する半島)までを遠征し、初の統一国家・アッカド帝国を建国した。
建国に際しサルゴンは、それまで複数の異なる言語で話していた民族にアッカド語を使うよう統一し、共通言語とした。これが人類最初の共通語とされている。さらに彼は、言語の異なる民族を支配した後、動物も支配したいと考えるようになり、世界で初めて動物園も作ったと言われている。

 そんな、歴史の重要な一ページを飾ったサルゴンには、一つのある伝説が言い伝えられている。生い立ちのエピソードだ。
伝説によると、彼は巫女が産んだ子供であり、葦の籠に入れられてユーフラテス川(ペルシャ湾につながるメソポタミア地方の大きな川)に流され、庭師に拾われたという。巫女とは、神に祈りを捧げたり神託を人々に伝える役割持つ女性のこと。なので、初めて帝国を築き上げたサルゴンには、神に選ばれた特別な存在だということで民衆から神格化され、伝説として今日まで伝わっていると思われる。

 さて、このサルゴンの生い立ちエピソードにピンときた人もいるかもしれない。
そう、実はこの話、ヘブライ聖書のモーゼ誕生の話と酷似している。
ユダヤ教におけるモーゼは、神からの教えを授かり民衆を導く預言者として、非常に重要なキャラクターである。そのモーゼの生い立ちはどんなものかというと、エジプトにいるヘブライ人の家族の子として生まれるが、当時強い影響力を誇っていたエジプトの王・ファラオによりヘブライ人の新生児殺害の命令が下されたことで、それを逃れるために赤ん坊の彼はナイル川に流され、のちにファラオの娘に拾われ大切に育てたられるというエピソードである。
生まれたばかりの赤ん坊が何かしら理由で川に流され、のちに他人に拾われるというこのシナリオ、サルゴンの生い立ちの伝説とそっくりである。

 これが今回私が伝えたいこと。つまり、物語には、背景となる別の物語が何かしら存在する。
それが偶然だろうと意図的であろうと、結果的にそれは同じシナリオを少しもじった形で受け継がれる。全世界の多くの人々に読まれていて、今も熱烈にその内容を信じる人がいる聖書であっても、例外はない。

 さらに面白いのは、こういう昔の物語の一部が新しい物語に転用されているケースは、どんな作品にもほぼ例外なく当てはまる。
例えば、有名なアニメ『エヴァンゲリオン』。この作品もテクノロジーの要素だけでなく、生命の実を食べたアダムの子孫である使徒と、知恵の実を食べたリリスの子孫である人間、という世界観の中でストーリーが展開されていく。この、神と人間は別々の存在だとするシナリオも聖書の物語を受け継いでいる。

他にも、有名マンガ『デスノート』筋書きは、ドストエフスキーの小説『罪と罰』と非常に似通っているし、私が最近ハマっているアニメ『陰の実力者になりたくて』でも、メインキャラの一人であるベータという少女が、主人公がかつて生きていた前世の文学をほぼまるパクリした小説を異世界で販売し、作家として名を広めている描写がある。

 ここから読み取れることは、オリジナリティ溢れる物語と言われるものは、すべからく昔の物語の一部をパクっていて、それらの組み合わせによって成り立っているということだ。私たちがオリジナリティと呼んでいるそれは、何もないところからある日突然生まれたものではなく、どこかの誰かが昔描いたストーリーの一部を拝借しているにすぎない。
私たちはその歴史を知らないから、新しい作品を見てつい「オリジナリティ」と呼んでしまう。しかし実際は、どんな作家でも必ず何かの物語に影響は受けていて、その物語の一部をかいつまんでパクリながら新たなストーリーを作り上げているということだ。

 そう考えれば、あらゆる物語はパクリだとも言えるし、作者がそれを自分なりに再構成したのであれば、オリジナリティがあってパクリではないとも言える。
であれば一番不思議なのは、「パクリ」という言葉そのもの意味かもしれない。一体私たちは、どこからどこまでがパクリで、どこからをオリジナルと呼ぶのだろう?

 そんなことをふと考える今日この頃であった。


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