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2024年「幸せの曙」



はじめに 2024年幕明けと共に、生まれ変わりつつある「今」

 2024年が幕明けた。たまに、日記として、Noteを活用していこうと思う。気の赴くままに。

 幕開けとともに、このことが、心に浮かんできた。

「幸せ」ということ。「とことん、幸せに生きる」ということ。

 2024年の心がけるテーマとしたいと思う。


1)「幸せ」ということ。その実感

 年末年始は、妻の家族と一緒に、実家で過ごした。妻方の親戚の家に訪れたりもした。そのなかで感じた、人と人との間に、また、心と心を通じて流れる「暖かさ」というもの。「一緒に居て、楽しいなあ」「会話するだけで、和やかな笑いが起きるだけで、幸せだなあ」という感じ。この感じを、久々に、「意識的に」感じることができた。

 大事な人と、大事な時間を、共にする。その「今」があるということ。これだけで、生が充足する感覚。「これで、十分だ。今で、満足だ。」このときには、確かに、「暖かいもの」が流れる。エネルギー、血の巡り、脳の活性。「家族が掛け替えなく」思える。他者と自分が1つになって、嬉しく幸せに思えること。

 この「暖かさ」こそが、「善きもの」であり、「幸せをもたらすもの」であり、「生を充足」させるものだ。あれこれ考えず、その中で、満足を得られるものだ。確かに、そう確信ができた。

 「家族的な暖かさ・家族的な愛が『幸せ』をもたらす確信を得た」と、今は、そう、表現しておこう。


2)「幸せ」であるための着想と行動

 この「幸せ」であることを、2024年、否、この先の人生のテーマ(心がけるべき目的)として、据え置きたい。なぜなら、それは、生を充足させるものであり、至上の喜びへの道を、常に、こさえているからだ。「幸せこそが、生を授かった時から、万人に開かれた、人生の目的」といっても、言い過ぎではないのではないか。赤子や子どもと接していれば、わかる。それ以外に、何を求めていることが、あるだろう?

 白状すれば、僕は、どちらかといえば、人生の目的は、よもや「未来に達成する目標」のようなものと、感じていた。いや、しかし、それは、少し違うのではないか。「幸せに、先延ばしは、ない。」幸せは、その瞬間瞬間に、感じ、訪れ、持続するものだ。「将来像」を設定することで、活力が湧き、それが幸せの実感をもたらすことはあるだろう。だけど、その逆では、ないはずだ。今まで、恐れながら(何に?)薄々と感じていたそのことを、実感として、今持ち始めている。

 では、そんな幸せを、どう意識的に、今に、瞬間瞬間に、感じ、訪れさせ、持続させることができるのだろうか。そのためには、この「幸せ」の要素をもう少し分解し、素材を見極めると共に、自分自身の欲求や素質に合った行動を着想し実行していくことが必要に思える。つまり、「幸せであり続けるため」の「普遍的な分析」と「個別具体的なアプローチ」が必要ではないか?

以下より、前者について、仮説として、据え置き、考えてみたい。

「幸せ」の要素 ①不安がないこと

 今は、大きく、感じられる点を何点かだけ、箇条書きと若干の補足だけを記しておきたい。詳しくは、実践しながら、検証(的実感)しては、掘り下げていきたいと思うからだ。(また、生活の中で検証的実感をしては、アウトプットしてみたい。)

 1つ目に、「不安がないこと」が浮かんだ。これは、「幸せの実感」と対の関係にも思える。実体験からして、「不安を感じている」時には、「幸せの実感」は遠のく。逆も然りである。これらは、相容れない、感情(の実感)に思える。「不安」は、感情の中で最大の「幸せ」の阻害要因であるように思える。

 では、「不安」が生じる瞬間を、減じていくことができれば、「幸せ」が訪れる格率も上がるのではないか。「不安が生じる要素」とは何かを、考えてみると良いかもしれない。逆の発想である。
 1つには、「思考が働く」ことだ。(これは、特に自分の場合に、あてはまるのかもしれないが、、)「思考」は、あれやこれやと、「将来起こるかもしれない出来事への心配」や、「誰かからの、勝手な否定や批判という妄想」を生み出すことが、往々にしてある。この「思考」が、「不安」を生み出すように思えるのだ

 ただ、何かについて、集中して(意識的に)、建設的に考える際の「思考」は、ここで言う「不安を生み出す思考」とは、性質が異なるように思える。前者を、「自動的思考」(意識せず、あれやこれやといつの間にか、ネガティブなことを考えてしまっているという意味で)と呼ぶとすれば、後者を「意識的思考」(もしくは、道具的思考)と呼べるかもしれない。特に、前者に注意を払うことで、「不安」が知らぬ間に起こる状態を回避できるように思える。「不安は、意識せず、知らぬ間に起こる」と言えるかもしれない。

「幸せ」の要素 ②自分軸で生きていること

 2つ目には、「自分軸で生きていること」が浮かんだ。「自分を大切にして、生きていること」と言い換えられるかもしれない。

 「自分を大切にできない人が、ひとを大切にできない」といったことは、聞いたことがある。だけど、なかなか、実感に至ることができなかった。でも、きっと、、そうなのだろう。それは、こうも言い換えられる。「自分の存在や在り方を大切にする深度に比例して、ひとの存在や在り方を、慮り、大切にできる」と。これは、僕にとっても、まだまだ未知の部分もある扉であり、これから開いては、歩み、実感を深めていきたい。

 では、この「自分軸」とはなにか。大切にする「自分」や「在り方」とは、何を指しているのか。

 1つには、「無理のない自分」と言い換えられるかもしれない。自然態の自分。ありのままに、顕在する自分。「頑張って、こうなる」自分や、「誰かと思わず比較してしまう」自分とは、少し違う自分である気がしている。「ああしたいな」「もっと、こうなりたいな」と、自然な欲求が湧き出てきては、自然に、楽に、そうあれる、そう向かえる自分。

 2つ目には、「長所や個性を、出せて、伸びている自分」。これは、「無理のない自分」がそうなれる自分かもしれない。自然態でいるときに、顕れてくる素性(ありのままの姿・繕っていない姿)に、重なるようにも思える。ひとから言ってもらって気づくこともあるし、その状態でいる時の自分が「楽だなあ」「好きだなあ」という感じがして気づくこともあるかもしれない。そして、できることであれば、その状態(どんな自分の姿か)を、鏡に写すように意識的・自覚的でいられたら、良いだろう。また、反対に、「弱点や短所」に感じられる部分もあるだろう。その点については、長所や個性を出して、伸ばしていきながら、補っていったり、あるがままに光らせていってもよい。「気になる、もっと魅力的になりたい。」と思うのであれば、より良く変容させていったらよい。ただし、長所や個性(ありのままの姿)を大切にするためにも、「楽しみながら」が、良いだろう。

 3つ目には、「やりたい、やってみたいを、素直に実現できている自分」。自ずから芽生えてくる欲求や願望を、評価したり否定したりせずに、キャッチし、受け容れ、素直に従っている状態。従い実現に伴い、「やりたい、やってみたい」の感情の強度も、螺旋的に高まっていくようにも思える。

 最後に、「今に充足し、有能感を感じられる、全的な自分」とまとめられるかもしれない。1つ目から3つ目までの要素が混ざり、溶け合って、このような自分の「在り方」として、まとめられるかもしれない。


「幸せ」の要素 ③ポジティヴな感情が持続していること

 これについては、①と逆の発想である。「楽しい」「わくわく」「嬉しい」「恋しているやきゅんとする」「期待や希望に溢れている」「楽だ」こういった感情が、芽生えていては、持続している状態。持続の長さや強度に応じて、幸せの実感や強度は、高まるのではないだろうか。


「幸せ」の要素 ④他者や環境と、尊重(生かし)し合う関係にありながら、喜びの中で溶け合っていること

 4つ目に、「他者や環境と、尊重(生かし)し合う関係にありながら、喜びの中で溶け合っていること」が浮かんだ。これについては、時間を置いて、少し補足してみたいと思う。

①〜③と、④は、車輪の両輪のように、2つが1にして、影響関係を持ち合っている気がしている。

終わりに 「幸せに生きる」実践へ

 今回は、2024年、また今後の人生に於いて、心がけたいテーマのうち、1つ目の「幸せ」ということ。「とことん、幸せに生きる」ということ。について、はしがきとして書いてみた。

 また、このことを具体的に実現していくためにも、特に、仮説的に、「幸せであり続けるため」の「普遍的な分析」を、自分なりに、描いてみた。

 この仮説については、次回以降の日記で、自分自身の特性や個性に則した「個別具体的なアプローチ」を練り、編んでみたい。

 また、そのうえで、実践的に検証をし、実感を言語化してみては、また「普遍的な分析」にあたる仮説を深堀りしたり、「個別具体的なアプローチ」の純度や精度をあげていってみたい。

 2024年から、今後の人生、またその瞬間瞬間にかけて、僕は、「とことん、幸せに生きる」ことを、とことん、探究・深堀りしていってみたいと思う。ここについては、「生を賭けて」も、いいだろう。笑って、楽しみながら。

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