すべては「正直」という北極星のもとに ── 高級ハサミ〈HASA〉誕生の舞台裏
誰の家にも1本、気がつけば数本あることも不思議ではないほど、私たちの生活に浸透しているハサミ。そのなかでも、丁寧な暮らしや道具にこだわりたいユーザーにとって、ベストな選択肢となるようなハサミがあるとしたら、一体どんな姿をしているのでしょう? それを追求することから、コクヨ株式会社とTakramとのプロジェクトはスタートしました。
今回、Takramにプロダクトデザインとブランドコンセプトの構築を依頼したきっかけは、「コクヨデザインアワード」で審査員を務めていたTakram代表の田川欣哉の研修だったと、HASAの開発担当者であるコクヨのグローバルステーショナリー事業本部の藤谷慎吾さんは振り返ります。
「クライアント企業をいかに良くするかという視点に立ったお話をされていて、いつかTakramと一緒に仕事をしてみたいと思ったんです。フラッグシップモデルをつくるにあたり、技術もデザインもわかる会社という点も決め手でした」(藤谷さん)
ユーザー、市場に耳を傾けてハサミを知る
有形無形問わずさまざまなコト、モノのデザインを手がけてきたTakramですが、ハサミをデザインするのは初めての試み。プロジェクトのディレクションを担当したTakramのインダストリアルデザイナー田中尚は、プロジェクトが始まる前からハサミというプロダクトの在り方の難しさを感じていたといいます。
「ハサミの良さは、外観や言葉だけではわからない。実際に手に取り使ってみて、初めてその良し悪しがはっきりわかります。良いハサミをつくるなら、理屈以前にそのジャッジのなかで良いと思われるものにしなくてはいけない。また、長い間基本的な設計が変わらない道具でもあり、新たなコンセプトや考え方をまとめ上げるのも難しい。デザインの難易度が高いと感じました」(田中)
田中と共にプロジェクトに携わった同じくインダストリアルデザイナーの中森大樹も、「ハサミは形状がそのまま機能になるし、スタイルにもなる。人が直接手に持って使うものなので、身体の一部をつくるような作業になるのかなと思いました」と、ハサミというツールならではのハードルの高さを感じていました。
難題に挑むにあたり、コクヨとTakramのチームはまず共同でリサーチを始めました。リサーチ段階から他社と一緒に取り組むのは、コクヨにとっては珍しいケースだと、藤谷さんは言います。
今回のリサーチのプロセスは、大きく分けてふたつ。ひとつは、Takramの多くのプロジェクトで行なわれるエグゼクティブインタビュー。今回のプロジェクトをどのように捉えているのか、そしてコクヨのビジネスにおけるこのプロジェクトの立ち位置についてを、ステーショナリー部門のエグゼクティブの方々にヒアリングしていきます。
もうひとつは、ユーザーを対象にしたリサーチ。ユーザーがどのような課題を抱え、どのような道具を必要としているのかを見極めていきます。とはいえ、対象となるプロダクトは長い歴史をもち、すでに飽和状態ともいえるハサミ市場。新しい知見を得るためには、視点を変えながらの細かなリサーチが必要です。
ユーザーを対象にしたリサーチでは、実際にターゲットユーザーの自宅にうかがい、日常生活全般、商品や道具との向き合い方などのヒアリングや、室内の道具の扱われ方などのフィールドリサーチを行ないました。ハサミを取りに行くところから使い終わるまでの一連のプロセスを実演していただき、動画に収め、どのハサミが何の目的で使われているか、どういうハサミがどういう場所に置かれているかなども調べました。
「ハサミは誰もが使う道具ではあるのですが、今回は丁寧な暮らしや道具にこだわる方がターゲットなので、彼らのライフスタイルをどこまで知れるかがポイントでした」(田中)
ターゲットの家庭ではさまざまな場所にさまざまなハサミが置かれており、家から10本以上のハサミが出てくる人も少なくありませんでした。
「当然ながら同じハサミがいっぱいあるわけではなく、用途に応じて使い分けていたんです。それぞれの場所で淘汰が起きていて、使いやすいものが残っている。それがとてもおもしろかったです」(田中)
言葉にならないニーズを拾う
普段のリサーチでは、ユーザーにインタビュー会場まで来てもらうことが多いと語る藤谷さん。しかし、実際に自宅を訪問すると、思わぬ収穫があったと語ります。
「例えば『黒が好き』とおっしゃった方がいたとしても、どのくらい好きなのかが会場だとよくわかりません。実際に家で使われているものと一緒に見ていくことで、そのバックグラウンドも見えるというのが大きかったですね」(藤谷さん)
また、インタビューでは、市販のハサミを並べて「許せるハサミ」「許せないハサミ」に分けてもらう調査も行ないました。ユーザーが言語化しづらいスタイルの好みや許容範囲を明らかにするためです。
「同じハサミを数年、数十年と使っている方が多いなかで、長期間にわたって家にあって許せるかどうかという点はスタイリングの大事なポイントになります。この仕分けで、外観や素材の方向性が決定づけられることになりました」(田中)
ちなみに、今回はターゲットである「使うものにこだわりをもっている人」だけでなく、逆に「ハサミにこだわりのない人」へのリサーチも行ないました。ハサミにこだわりのない人たちは、安価なハサミを買い、切れ味が悪くなったらすぐ買い替えるという方法をとっていたことがわかり、好みのスタイルは、今回のターゲットユーザーのそれとは大きく異なるものであることもわかりました。このように、今回のターゲットと異なるユーザーへのリサーチも行なうことで、今回のハサミで取り組むべきこと、そうでないことの違いがクリアになりました。
「『高価格帯のラインをつくりたい。せっかく高価格なら性能が高いハサミをつくりたい』という最初のお題から、リサーチを通じて解像度が高まっていきました」(藤谷さん)
こうしたリサーチの結果浮かび上がってきたコンセプトが「正直」でした。
「ほかにも『古い親友』『信頼できる』『謙虚』『真面目』『淡々とした』『理論的』『必然性』『誠実』『愚直』というようなキーワードがたくさん出てきていて、最終的に『正直』という言葉に集約されていったんです」(田中)
では、HASAは何が正直なのでしょう? まずは何よりも、ユーザーに対する正直さです。こだわりがある人は、しっかり調べてハサミを購入し、それを数十年使い続けることもありえるでしょう。「そうしたとき、謳い文句に嘘があったら絶対にバレる」と田中は語ります。
「店頭で目を引く外観やメッセージは購入のフックになるかもしれないけれど、20年だまし続けることはできない。だからこそ、買った後のことをいちばんに考え、正直さに徹することが価値になると考えました」(田中)
正直であり続けるための、デザイン言語という指針
次に、デザインの正直さです。HASAのデザイン言語(チーム内で共有するために、形状や素材、色といったデザインに関連する項目のルールをまとめたもの)を手がけた田中は、見た目に必然性と愚直さを求めたといいます。
「まず目指したのは、毎日見ていても飽きない、奇をてらわないスタイルにすることです」(田中)
そして、ハサミの構造と機能に対する正直さです。刃というものの特性上、あらゆるモノを同じように切れる設計のハサミは存在しえません。刃の設計は必ずメリットとデメリットを生むからです。
「『このハサミは万能です』『これさえ買えばなんでもOKです』というコミュニケーションは、ハサミにおいて“正直”ではないのではないかと思いました」(田中)
HASAシリーズにはシーンに合わせて3種類のハサミが誕生しました。グリップの形も3種類でそれぞれ異なりますが、同じシリーズとして一貫して同じような使用感と外観のスタイルが保てるよう、ハサミの面やライン、断面の形状までもがデザイン言語で定義されています。
「シルエットこそオーソドックスですが、実は面の動きや質感、流れで使いやすさを担保しているんです」(中森)
こうした「正直さ」の基盤にあるのは、マーケットのリサーチとユーザーインタビューでした。例えば、マーケットでは高価格帯になるほど特徴的な外観になる傾向があったり、多機能になったりする傾向があったといいます。一方で、そうした過剰な意匠や見せかけの機能は、今回のターゲットユーザーに対して響いていないということも、インタビューから明らかになりました。
また、ユーザーが家で最もよく使う“スタメン”のハサミは、どれも奇をてらったスタイルではなかったと中森は振り返ります。
「リビングやダイニングのペン立てに入っていて、家族全員が使うようなスタメンのハサミは、ここに来るまで淘汰を経ている感じがしました。そこに選ばれたものは、どれも正直なものに見えたんですよね」(中森)
こうして決まった「正直」というコンセプトをぶれないものにするために、チームは「正直チェックリスト」なるものも作成。刃の設計や加工からパッケージや情報開示に関するものまで、9つの項目からなるこのチェックリストは、HASAを形にしていくうえで常に指針となりました。
「形や内容が決まってからコンセプトを考えるという商品も多いなかで、コンセプトをデザインの判断基準にするという考え方は面白かったです。コンセプトがあったことでつくり込みや進行もスムーズでしたし、ほかのブランドでもやってみたいと思いました」(藤谷さん)
その後、多くの試作ときめ細かいユーザビリティ検証を経て出来上がった〈HASA-001〉のデザインとシリーズ共通のデザイン言語を、Takramのチームはコクヨのチームに託しました。
「実は、〈HASA-002〉と〈HASA-003〉のプロダクトデザインは私が担当したんです。デザイン言語は本来、会社の資産といえるほどの価値のあるもので、ほかの会社ではまず出してもらえないと思います。それをそのまま使えるなんて贅沢だと思いました」(藤谷さん)
そして、その経験は、ハサミ以外の開発でも活かせそうだと藤谷さんは語ります。
「今回、デザイン言語に関する資料はすべていただいたんです。『こういう考え方があるからうまく使っていこう』と、社内の他のデザインチームに共有しました。市場にある製品を仕分けする方法も、さっそく次のプロジェクトで活用しました。田川さんが『クライアント企業が成長することがいちばんのゴール』とおっしゃっていましたが、その姿勢が現れていたと思います」
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