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ベジタリアン

季節外れの旅の宿。
客は俺たち二人だけだった。
岩泉の龍泉洞近くの、鄙びた安宿である。
9月も終わり近かった。

頭が禿げ、縁の太いメガネをかけた、
毛むくじゃらの、武骨なおやじが、
一人で、すべてを切り回している。
観光シーズンにはもちろん、複数の従業員がいたという。

夕食の時間が来た。
賄いもやはり、おやじ一人でやるらしい。

出てきたものは、それにふさわしいものだった。
その地の名物でもある、ジンギスカンである。
山盛りの野菜と山盛りの肉。
とりわけ肉の量が並大抵でない。

鍋の用意を整えると、
「どんぞ、ま、ゆっくりやってけらっせん」、
一声残して、おやじは消えた。

消えたと思うと、すぐ、
どんぶりに山盛りの山菜そばを二つ、
盆に載せて戻ってくる。

俺は連れの女と顔を見合わせた。
とても二人で食える量ではない。
おまけに女は、肉が食えないのだ。

「どうしよう。
残しちゃ悪いけど全部はとても…」
「とりあえず、そばだけでも食うか。
あのおっさんが、一生懸命作ってくれたんだから」

そばを食っただけで腹が膨れた。
しかし、おやじの素朴さは、ありがたすぎた。
とにかく食えるだけ食わなければ、
申し訳ないような気がした。

俺は、かつてないほどの量を食った。
最後はやはりギブアップしたのだが、
それでも相当な量の肉を平らげたのであった。

腹を下すことはなかったが、翌日は、
朝から吐き気が治まらない。
バスに揺られて、曲がりくねった山道を下るのは、
地獄の苦しみだった。

目的地は三陸の小さな町。
そこから船に乗ることになっていた。

バス停を降りたときはもう、
胃が腸を引きずって、口から飛び出しそうだった。

ところが徹底的についてない。
うっかり一つ前のバス停で、降りてしまったのだ。
タクシーでもあればいいが、
車どころか、人っ子一人通らない。

仕方なく歩いて行くことにする。
しかし、のんびりしては、いられない。
船の時間が迫っているのだ。
乗り遅れたら何時間も待つことになる。

走った。
拷問だ。
口と腹を押さえて、やけくそになって走った。

なんとか間に合った。

間に合いはしたものの、
更なる地獄が待ち受けていた。

乗客は俺たち二人だけだった。
小さな客船ながら、貸切状態。
もちろん、俺に、
そんなリッチな気分を味わう余裕などない。

海は荒れていた。

早く着いてくれ、早く早く…

ウミネコが嘲るように、からかうように鳴き喚く。
体中の肉が口から飛び出しそうだ。

うっ、ううっ…

その日から俺は、肉が食えなくなった。

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