吸血鬼はいつから日光で灰になるようになったか

 吸血鬼はいつから日光で灰になるようになったか

 吸血鬼の弱点と言えば、日光。
 ニンニクや鏡が、一撃必殺の武器にならないなか、日光は「いつでもどこでも」使えたり、持ち運びはできませんが、「一撃必殺」非常に心強い武器です。
 なにせ、人間にとっては無害なのにも関わらず、吸血鬼は浴びたら灰になるんですから。
 しかも、白木の杭を心臓に打ち込む、みたいに、そばに近寄る必要もないし。これなら、昼間、彼らの潜む墓を暴いて日光にさらせば万事解決ですね。

 話が逸れますが、せっかくの機会ですのでちまたに流布している吸血鬼の弱点を並べてみます。民間伝承とか後の創作とかごたまぜで、あくまで「ちまたに流布している」弱点です。

 日光:浴びると灰になる。
 ニンニク:臭気が吸血鬼よけになる。
 鏡:姿が映らないので吸血鬼を見分けられる。
 白木の杭:これを心臓に打ち込まれると甦らない。
 銀:触れることができない。触れたら焼きごてを当てられたように焼ける。
 聖水:浴びると硫酸を浴びたときのようにその部分が溶け爛れる。
 芥子の実などの細かな植物の種:目にすると数えずにはいられない。
 茨:うっかり迷い込むと絡まって出られない。
 流れ水:渡れない。吸血鬼よけになり、また、はまり込むと溺れる。

 なんだかたくさんありすぎて書いてて切なくなってきましたね。もちろん、まだまだたくさんあるんですがこのくらいにしておきます。
 吸血鬼諸氏にとって世界は危険に満ちています。
 せっかく甦ったのに、この有様では永生を楽しむのも楽ではない……

 吸血鬼諸氏に同情するのはこのくらいにしておきまして、列挙してみても分かるとおり、やはり「日光」の力は計り知れないわけです。これのせいで吸血鬼にとって昼間の世界……世界の半分はないも同然。
しかしちょっと待ってください。

【どうして吸血鬼は日光で灰になるんでしょうか?】

 いやそんなの、民間伝承に理屈を求めるだけ無駄でしょ?
 昔からそういう言い伝えで、みんなそんなもんかと思って信じてきたんだから。

 そうでしょうか。
 民間伝承とは、現代で言うところの【科学的な対処方法】がなかった時代、いまそこにある危険を遠ざけるために、その時代を生きた人々が編み出したもので、【そう信じられてきた】だけじゃなくて、【実際、実践されてきた】ものです。
 やってみて、効果があったかどうかは置くとして(※)実践してみて、言い伝えと目で見た現実があきらかに違えば、それは「おかしい」となるでしょう。

(※)現実の効果面については、効果がなければ「さては別の吸血鬼がいるんだ、探せ」みたいな言い訳もできますし、いろいろ試しているうちに彼らの考える危険は終息したでしょう。そうすれば「効果があった!」となります。しかし、実践に際して、目にした死体の状況等は別です。

 となると、「吸血鬼は日光で灰になる」というのは「昔からの言い伝えだったかどうか」は、実は怪しいわけです。

 たとえば村に疫病が流行ったり、身持ちの堅い未婚の娘さんや後家さんが妊娠したり……まあ、なんでもいいんですが、その村にとって都合の悪いなにかが起きたとします。おかしい、これは村に吸血鬼が徘徊しているに違いない。村人は墓場に行き、「やつが吸血鬼に違いない」と思われる墓を暴き、対処します。
 昼間、墓を掘り返すと「動かない死体」を発見します。
 状況によっては死後数週間経っていても腐ってなかったり(東欧では土中の温度が低い場合があり、腐りにくいときがある)、棺が血に満たされていたり(死体の体液や土中の水分が柩に溜まった可能性)、声を発したりする死体(腐敗によるガスが体内にあり、それが漏れた。これに関連して「吸血鬼の息は途方もなく臭い」という民間伝承もある)を見て、村人たちは、心臓に杭を打ち込んだり、墓から起き上がろうとしてもできないようにうつ伏せに寝かせたり、ニンニクを口に詰めたりといった【対処】をするわけです。あれ? 「日光で灰になる」要素がありませんね??

 そう、民間伝承って、ある部分においてはわりと「実体験そのまんま」なんです。
 対処方法はキリスト教や土着の宗教の影響などに基づく一種のファンタジーですが、悪霊の特徴は、見たまま。

 そうとするなら、「吸血鬼は日光で灰になる」ではなくて「吸血鬼は日光で動けなくなる」でなければおかしい。
 吸血鬼を信じる人々が墓を掘り返して見つけるのは、「動かない死体」であって、「柩の蓋をこじ開けると見る間に灰になっていく死体」ではないのですから。

 もちろん伝承のなかには、吸血鬼が日光で灰になる話もあるようですし(※)、民間伝承のすべてが「見たまま」とは限らないのですが、伝播力の観点からいくと、「見たまま」の特徴の方が「うちもそうだった」「こちらもそういうことがあった」と、納得しやすく、それが伝承を強固なものにしていくと考えられます。
(※)文字として残されていない物語は変容しやすく、【本当に昔から日光で灰になったか】どうかは、おとぎ話や昔話、伝承を採話した時期がいつかという問題もあるように思うのですが、これについては当方ではまったく調べが付いていません。

 どうやら民間伝承には「日光で灰になる」要素は薄いようです。
 物語のなかの吸血鬼について振り返ってみましょう。
 
A ジョン・ポリドリ作「吸血鬼」(1819年)
B テオフィル・ゴーティエ「死女の恋」(1836年)
C ジェームズ・マルコム・ライマーほか作「吸血鬼ヴァーニー」(1845~47年)
D ジョセフ・シェリダン・レ・ファニュ「カーミラ」(1872年)
E スタニスラウス・エリック・シュテンボック伯爵「夜ごとの調べ」(1894年)
F ブラム・ストーカー作「吸血鬼ドラキュラ」(1897年)

注:ネタバレになっちゃうので、それがいやなかたはここから先はお読みにならないでください。

A・Eは、滅びません。とくにAは日中も普通に活動しています。
Bは偉いお坊さんの法力と聖水で灰になります。
Cは何をやっても滅びなくて、最後は火山の火口に身を投げます(作者が長期連載に飽きていい加減、連載をやめたかった模様です)
D・F心臓に杭(Fはナイフですが)

 あ、あれ?
 ここでも吸血鬼は日光で灰にはなってませんね?
 昼間は柩の中で動かない設定の吸血鬼はいらっしゃる模様ですが……
 いやいや、そんなはずはないでしょう?
 だいたい吸血鬼の中でも最も有名なドラキュラは日光で灰になるはずじゃないの? と仰る方、実は、ブラム・ストーカーの「ドラキュラ」は日光は本来の力を弱めるだけで、まったく決定的な弱点ではないのです。(原作には昼間、ヘルシング一行と室内で大立回りの末、窓を突き破って日光のなか逃走、というシーンもある)
 ほら、平野耕太「HELLSING」で吸血鬼アーカードも「日光は大嫌いなだけ」って言ってましたでしょう?
 コッポラのブラム・ストーカーに忠実なと銘打った「ドラキュラ」に登場するドラキュラも、日光で灰にはなりません。

 そうなると、いつから「吸血鬼は日光で灰になる」がメジャーな設定になったか、気になりません?

ということで、次は映画に目を移してみます。

A「ノスフェラトゥ」(1922年)
B「魔人ドラキュラ」(1931年)
C「女ドラキュラ」(1936年」
D「吸血鬼ドラキュラ」(1958年)

 Aでは、吸血鬼オルロック伯爵は心の美しい女性の血に我を忘れて吸血し、その枕元に一番鶏が鳴くまでとどまったことによって日光を浴びて煙になって消え失せます。
 B・Cは杭を打たれて滅びます。
 Dは、ヘルシングとの室内の戦いで夜が明けていることに気づかず、ヘルシングがカーテンを引き破ったことで日光を浴び、灰になります。

 そうです。もちろん日光が平気な吸血鬼もいらっしゃいますが、映画産業に進出した吸血鬼諸氏は、あきらかに日光に弱くなっているのです!
 例示したのは初期の作品ですが、1980年代以降、「フライトナイト」「ロストボーイ」「ニア・ダーク月夜の出来事」「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」「ヴァンパイア最期の聖戦」「ブレイド」……日光で灰になる作品が続々と登場します。

 これは映画の持つ視覚効果と、特撮技術(もしくはCG映像)の発達が大きく影響してると言えます。
 夜が明ける。さっと日光がさす。いままで猛威を振るっていた怪物が見る間に灰になったり燃え上がったり……劇的で楽しいですよね。(吸血鬼諸氏ににしてみれば別の意見があると思いますが、あくまで人間の視聴者にしてみれば)
 しかも特撮技術の発達で、映像がどんどん「ホンモノ」らしくなっていく。


 吸血鬼はいつから日光で灰になるようになったか。
 昔から日光で灰になる方もなかにはいらっしゃった可能性もありますが、「メジャーな設定」となったのは彼らが映画産業に進出してから、ということで……

 ほんとに、日光にはとことん弱くなるし、人狼とはけんかしないといけなくなるし……映画産業は彼らにとって困った業界ですよ?!

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