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11月21日(お茶をする時間の話)

「お茶をする」「お茶でもいこう」というフレーズは人類の共通言語だろうか。昼間動き回った後に、とりあえず椅子に座ってゆっくりしましょうか、というあの時間が僕は好きだ。

子供の頃は、家族と出かけると、お茶の時間は必須だった。それがないと、何だか締まらない。時間のリズムを整えるということなのかもしれない。
中学、高校時代も、友達と仲の良い友達と遊びに行くときもお茶の時間を楽しんだ。

お茶と言いながら、飲むのはだいたいコーヒーなのも面白い。ホットコーヒーを頼んでしまって、うっかり話し込んで冷めてしまったコーヒーの味わいが何ともいえない。冷めてしまったコーヒーをかきこみながら「ヤバい、そろそろ行かないと」と思う瞬間も何だか面白い。
1人でいる時は、ただただがっかりするだけだからアイスコーヒーしか頼まない。なんとなくホットコーヒーは格式が高い感じがして、頼むと気持ちがシャキッとする。

お茶の時間を楽しめない人も、中にはいる。そのタイプの人とは、あまり仲良くなれた気がしない。「お茶」の概念がわかって、一緒に空気を楽しめる人が居心地のいい人だ。お茶で友達を選んでいるのかもしれない。

お茶をするのに適した環境というものがあると思う。

照明は暖色であって欲しい。白くて明るくてコンクリートの打ちっぱなしみたいな壁の空間は、お洒落で洗練されているけれど、お茶には向かない。
ちょっとざわついた感じで、だけど会話の内容までは耳に入ってこないくらいの環境がちょうどいい。注意すれば近くの人の会話が聞き取れたりもする。ふと目を横にやると、マルチの勧誘をやっていたり、そういうそれぞれの人生の時間を思うように生きている空間もいい。
最近は法律だの条例だのが変わって、喫煙席がほとんどなくなってしまったけど、本当はあの喫煙席の感じが好きだった。無ければないで諦めるしかないんだけど。とても懐かしい。

コーヒーの味は正直そんなに関係がないと思う。やっぱり大事なのは空間だ。高級コーヒーはどちらかというとワインのような嗜好の世界になってしまう。そうじゃなくて、いつものコーヒーがいい。おいしくてもおいしくなくてもいい。深入りしないと飲めないくらいの豆でも、それはそれでいい。そういう意味で、ほぼいつでも同じ味のチェーン店はすごいとおもう。
ドトールのコーヒーがリニューアルした時は、味が変わってしまったらどうしようと大変不安になった。

街の小さな喫茶店もいい。
マスターの集めた、見る人が見ればわかるけど、自分が見ても良さがそこまで分からない、だけど柄がかわいいコーヒーカップでのむ、少し高いコーヒーはとてもいい。
豆の味わいには詳しくないけど、ブレンドじゃなくてマメの名前で注文するといい気分になってくる。

そういう、お茶をする空間はいつまで残ってくれるのだろうか。

誰かを楽にして、自分も楽になれる文章。いつか誰かが呼んでくれるその日のために、書き続けています。 サポートするのは簡単なことではありませんが、共感していただけましたら幸いです。