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私には複数の顔がある。

分人主義。

人間には、いくつもの顔がある。—私たちは、このことをまず肯定しよう。相手次第で、自然とさまざまな自分になる。それは少しも後ろめたいことではない。どこに行ってもオレはオレでは、面倒くさがられるだけで、コミュニケーションは成立しない。だからこそ、人間は決して唯一無二の「(分割不可能な)個人 individual」ではない。複数の「(分割可能な)分人dividual」である。     

ぼーっとTwitterを眺めていたらタイムラインに流れてきたこの言葉に

目が止まってしまった。




先日のゴールデンウイーク。
小学校時代の友人に会った。 およそ、13年ぶりの再会である。

「久しぶり!変わってないね。」


「そーかな。久しぶりですね。」
当時の事はあまりよく覚えていない。あの頃何て呼んでたっけ...私、どんな話し方だっけ...敬語になる違和感。

本当の私じゃないみたい。気づけば話は、小学時代の思い出話になっていた。

私の小学校時代は、
よく我慢して、よく頑張る子だった。



3歳の頃から習っていたピアノではコンクールに何度も出場していたし、
夏の自由研究でもいくつか賞をもらったり、
詩を書いて何度か本にも掲載されたりした、
部活動にも全力で注力していた。
勉強はできないが、「よく頑張るいい子」だった。

それとは反対に、女子グループにいると「嫌だ」となかなか言えず、いじられキャラになる事ばかりだった。
嫌だ。なんて言えずに...我慢して、笑ってごまかす。「イジられている子」だった。

高校・大学デビュー

大学生になると明るくなった。顔が変わった。何もかもが楽しくて、これが本当の私だ!なんて思っていた。「明るくて何でもやっていくような子」だった。

お酒も飲めるようになれば、酔っ払って言いたいこと何でも言える!本当の私だ!なんて思っていた。「何でも話すオープンな子」だった。

久しぶりに会った友人は小学時代だった。

色んな顔をした私は、目の前にいる友人に
どんな顔で、会話すればいいか分からなくなっていた。

社会人になっても思った事がある。
言いたいことがあれば、思った事をすぐ発言する性格だと思っていた。何を考えてか発言できないこの感覚。

モヤモヤする! 本当の私はこんなんじゃ...

このタイムラインが流れてきたときに、目が止まった。
小・中・高の友達、学校の先生、親、好きな人、会社の人、
SNS上で私は、見せる顔が違う。時には、上っ面で冷めてる時もある。

どの私が本当の自分なんだろう。そう思うことはよくある。


でも、それら全ての顔が自分なんだと、「分人主義」は肯定していた。

平野 啓一郎さんの著書「私とは何か——「個人」から「分人」へ 」分人主義の事を綴っていた。


特に印象的だったのが、  

分人は変化し、分人の比率によって、自分というものが形成されることだ。

本書の言葉を抜粋する。

分人は関わる人によって変わる。                   分人のモデルには自我や「本当の自分」と行った中心は存在しない。しかし、その時々に大きな比率を占めている分人はある。高校時代は、部活の顧問かもしれないし、会社に入ってから上司かもしれない。私たちは、足場となるような重要な分人を一時的に中心として、その他の分人の構成を整理することもできる。

自分は誰と過ごす時間を多く持つべきか?誰と一緒にいる自分を今の自分の基礎にするべきか?活発で、楽しい自分になれると感じるなら、その分人こそを足場として、生きる道を考えて行けばいい。

また、新しく出会う人も、全く新たに分人化していく。

むしろ、分人を演じきるのはどうだろうか。

自分の意外な一面に出会い、楽しくなってくるかもしれない。

まとまりのない、そんな真夜中。

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