可動式図書館はタンパク質製か金属製か

記憶しなければ思考は成立しえない。これは当たり前の事実である。しかしながら、えてしてこの事実は無視されがちである。

最近の若者はスマートフォンで何かを調べるから思考力が足りないという命題がある。これは私に言わせれば、偽である。紙の辞書を使う利点として調べたいこと以外にも、関連付けられるなどという言説を流布する者もいるが、馬鹿馬鹿しい限りである。関連付けなどは膨大な知識を繋ぎあわせる過程で発生していくのであり、そのための学習は別途に行えばよい。そそくさと調べて、取り組んでいる課題を処理していく方が学習効率は良いだろう。調べたいことは手早く調査できたほうが当然ロスが少ないのであり、気軽に調べられることが学習、もしくは伝統的暗記を阻害するのではなく、人によっては促進さえされうる。

暗記は思考を促進するのか、否か。私には是であると思われる。そも、思考は脳内での言語活動を基にしているため、自らの持つ語彙、即ち知識以上のものなど、成立するわけがない。暗記は十分条件ではなく、必要十分条件である。

日本の教育では、これまでの暗記偏重の受動的教育からの脱却を掲げ、対話などを重視した教育を推し進めようとしている。しかし、上段で述べたように、対話を構成する物は知である。

私には、今の教育において必要以上に個性が重視されているように思えてならない。個性的な人間などという幻想は、人口過多の現在においては打ち砕かれており、ヒューマニズムと個性に立脚した個人主義が混同されていると感じる。人間的感性を失った、巨大な社会という機構は個人を軽視し、使い潰すが、これは防がれねばならない。他方、個人々々が輝くというのは土台無理な話だ。様々な社会問題に直面している日本では、新たなコミュニティーの創設が叫ばれるが、集団では調和と平静こそが善と言え、強力なリーダーシップや革新は要らない。

個人の存在の危機が個性を求める風潮を生み出した、というのはよく聞かれる言説である。内なる超人を求め、夢を見る現代人たちは、既存の物を排除し、新たな価値観を打ち立てたがる。なぜなら、彼らの拠り所となるべき伝統はすでに崩壊しているから。その流行は、知識を軽視する運動をも生み出した。知識とは過去の積み重ねであるので、新たな時代を切り開く者にとっては必要ないという理屈だ。まして、言語的思考という概念を解さない者にとっては猶更である。しかし、現代の技術は全て古来よりの延長線上に存在している。古典的な知識を持たずして現代の、技術が齎す問題を解決することは不可能と言っても良い。知に文明は集約されるのだ。

真の図書館とは人間である。

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