見出し画像

〜ひとくち映画レビュー〜 インフィニティ・プール(ネタバレあり)

アンチヴァイラル」「ポゼッサー」に続き、あの変人映画監督デヴィッド・クローネンバーグの息子ブランドン・クローネンバーグ監督3作目を観てきた。

「最新作はぜひ劇場で観たい!」と最新作を待ち侘びてしまうほどハマってしまってるブランドン・クローネンバーグ。親父の変態性をきっちり受け継いでいて、本当に待望の新作であった。

個人的には、奇妙さ不気味さ満載のかなり自分好み映画で大満足だった。ただ、僕が満足する映画は得てして万人受けしないので、決してオススメしたい映画ではない(笑)


さて、観終わって色々と語りたいことがあるので、以下はネタバレ全開で感想をお伝えしたいと思う。ひとくち、と言いながら長文になりそうなのであらかじめご了承ください。
ここからは、観賞後に読んでください!





以下、ネタバレ

ここからは僕個人の考察をネタバレしながら書いていく。観た方にとっては、この映画がかなり余白の多い、解釈の余地がいくらでもある映画だというのが明らかだろう。なので、ここに書くのはあくまで僕個人の考える解釈のひとつと考えていただきたい。

では、この映画を次の3点について考察していきたい。
①ガビたちはなぜジェームスをグループに誘い入れたのか?
②ラストにジェームスだけ島に残ったのはなぜか?
③クローンの設定の意図は?

まず、①ガビたちはなぜジェームスをグループに誘い入れたのか?について。

本作の舞台となる孤島では特殊すぎる法律が存在している。殺人などの凶悪な罪を犯しても金を払えば、自分のクローンを作りそのクローンを自分の代わりに死刑にすることができるのである。
要するに、その国では外国人観光客は金さえ払えば、何をやってもクローンを身代わりにして、やりたい放題できる、ということだ。

さて、枷が外れた大人たちの振る舞いはこの映画で描かれた通りである。ドラッグや飲酒運転は当たり前、他人に迷惑をかけることに何の躊躇もなくなるし、それほど深い理由が無くても強盗殺人を楽しみながらやってのける。
そんな枷の外れた大人たちのグループに誘い入れられた主人公のジェームス。では、なぜガビたちは自分たちのグループにジェームスを誘い入れたのだろうか?
それは「特に理由はない」「なんとなく」がその回答だと思う。
そもそも、ガビたちはなぜ毎年この孤島に来るのか?それはバカンスのためだ。もっと言えば、休暇でハメを外すためなのである。
この孤島のルールを知っているガビたちにとっては、その孤島は究極のハメ外しのためには絶好の場所だ。好きなだけドラッグをやり、好きなだけセックスをし、やりたい放題。いわば自分たちの国では決してできない快楽と娯楽に浸ることができるのである。
そして、そんな快楽を共有できる仲間を「なんとなく」増やすためにジェームスに目をつけた。言うなれば、中学生の不良グループがなんとなく仲間を増やすために他の生徒を悪い道に誘い入れるようなものである。グループに誘う過程でガビが何度も「体験」という言葉を使うが、これは悪いことを覚えた子どもが新しい刺激に興奮する様子にも似ている。


続いて②ラストにジェームスだけ島に残ったのはなぜか?について。

晴れて(!?)孤島のルールを知るグループに仲間入りしたジェームスだが、ジェームスと他のメンバーには大きな違いがある。
それは、自国においてちゃんとした仕事や地位を持っているか、そうでないか、である。ガビの夫であるアイバンは元々建築家で、今でも雑誌を発行するなどそれなりの仕事を持っている。メンバーには学者もいて(あと一人は何だったか覚えていないが)、いずれもちゃんとした職を持った「大人」なのである。一方、ジェームスは裕福な義父のおかげで暮らせている状況であり、本人自身で生計が立てられているわけではない。いわば、「未熟な大人」とも言える。そして、この「大人」と「未熟な大人」の差がラストに繋がる。

ガビたちは前述した通り、休暇でハメを外すために孤島に来た。しかし、自国に帰れば自分たちの生活があり、仕事を再開することとなる。
帰りのバスの中でガビたちは、前日までの振る舞いがウソのように帰国後の仕事の話なんかをしている。これは、「大人」たちの「ON・OFFの切り替え」を表しているのではないかと思う。
散々ハメを外したとしても、休暇は休暇、と割り切って、休暇が終わればキチンと自分たちの仕事と生活に専念するように切り替えられる。それが「大人」としての振る舞いである。
もう少し加えれば、ガビたちは「大人」として社会における「ルール」というものをよく理解している。あれだけ狂った振る舞いを見せながらも、ガビたちは「ルール」を犯してはいない。孤島では孤島のルールを理解して、そのルールを"利用"して楽しんでいたのだ。もちろん、自国に帰れば自国のルールがあるのでそこに則って生活をしていくのだろう。

対する「未熟な大人」であるジェームスは、「割り切る」「切り替える」ということができなかった。仕事や地位が曖昧な彼にとっては、休暇と生活をキチンと切り分けられなかった。そもそもジェームスは、この孤島に休暇で来ているわけではない。新作のアイデアのため、つまりは仕事の延長で来ているのである。仕事と遊びの境界が曖昧な彼の中で、島での異常な体験と自国での生活が地続きになってしまった。そして、島がオフシーズンになっても結局島の快楽に縛られて残り続けることになったのだ、と考えられる。


最後に③クローンの設定の意図は?について。

この作品においては、ジェームスやガビたちはオリジナルなのか?クローンなのか?もし、クローンであるなら、どこで入れ替わったのか?を考察することにあまり意味はないと僕は思う。
クローンは「自己」や「自分」のメタファーにすぎない。

おそらく、ジェームスを除くガビたちにとっては、今いる自分がオリジナルなのかクローンなのかはどうでも良いのだ。作中でもそこに不安を持つような描写はほとんどない。肉体がどうであろうと、ちゃんとした職や地位を持つ彼らは社会の一員として確固たる「自分」を持っている。クローンかどうかは些細なことだ、と、この面でも「割り切っている」。どれだけ快楽に溺れても「我を失う」ことはない。
一方、安定した職や地位のないジェームスは常に「自分」が揺らいでいる。自分で稼いだわけではない金で快楽に溺れ続け、最後にはガビたちにけしかけられ、自分を殴り殺し、文字通り「我を失った」のである。

ちなみに、ジェームスを「未熟な大人」と表現したのは、最後のジェームス同士の格闘の後にジェームスがガビの乳房を吸うシーンである。ここで、ガビたちはこれまでジェームスを子ども扱いしていたのだろう、と感じた。


少し補足。

誤解のないようにここで書いておくが、この記事において「大人」という言葉は、決して良い意味では使っていない。むしろ皮肉な意味をこめて使っている。「ずるい大人」「悪い大人」というのが1番近いだろうか。
当然、「成熟した大人」はこんな風にハメは外さない。ある意味ガビたちも未熟なのだが、さらに「未熟な大人」がジェームスだった、ということだ。

ガビたちはジェームスをグループに入れた後、明らかに職や地位のないジェームスを見下していた。自分のクローンを殴らせるのを「冗談」と言ったり、わざわざジェームスの処女作の書評を用意して読み上げたり、散々ジェームスを揶揄うようなことをした挙句、最後には何もなかったかのように「来年もまた会えるのを楽しみにしている」なんて言ってのける。
先の不良グループの例えで言えば、1番下っ端の子に万引きか何かさせて「やっと俺たちの仲間になれたな」なんて言われてるようなものだ。それでも、グループ内におけるジェームスの地位は変わらない。

ジェームスはずっと勘違いしていたのである。裕福な義父のおかげで暮らせているのに、セレブ気取りでリゾート地をバカにしたり、新作のアイデアのためにとわざわざ金のかかる旅行をしたり、作家として何の実力もない自分の身の丈を完全に見誤っていたのだ。
そして、金のかかる快楽に身を投じてしまった結果、その快楽に縛り付けられて堕ちてしまった。身の丈に合わない娯楽や快楽は身を滅ぼす、ということだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?