見出し画像

理想と現実のギャップ

今回は長文になった事をお許しください

 フォローしていただいているひでこや@教育様の記事を引用させていただきます。

 現状にとてもショックを受けています。というより、恐れていたことが起きている現実に後悔しています。

1.狭い世界

 総合大学の教員養成学部は、まだ外の世界が多少なりとも見えているのかもしれませんが(50歩100歩かも?)、単科の教育大学は非常に狭い世界です。私が地元の教育大学を忌諱したのも、規模が小さすぎるという理由もありました。

 はっきり言って幼稚な動機や純粋すぎる動機で入学する学生が昔から多いのは事実です。東京学芸大学もご多分に漏れず、マジョリティはそういう学生でした。従って、その波に飲まれてしまうと、刺激を受けない純粋培養の教員が生まれ、採用後に問題教師になってしまった事例を耳にしています。

昔、教員一流、設備二流、学生三流と自傷気味に言ってたものです。(早稲田の逆です)

 私を含めて、刺激を求めたマイノリティの学生の居場所は多くはありませんでした。でも、そんなマイノリティな学生が存在できる場所が、数十年前にはまだありました。

 元凶は教員免許の度重なる改正です。優れた?教員を養成する為に良かれと思って行った改正が、学生をマイノリティに行くことさえ許さないガチガチの履修カリキュラムを生み、結果として教員しかなれない学生を生み出す事になったのだと思います。優れたって定量化できる?出来ないものを勝手に定義してどうするの。

 一般の大学しか知らない方は分からないかと思いますが、教育系大学の、特に初等教育関連の課程のカリキュラムの必修科目の多さは、正に専門学校です。今は昔以上の医歯学部並みなガチガチなものになっていると思います。

 私の述べてきた東京学芸大学の姿の多くは、何十年も前のマイノリティが存在できた時代の歴史的記述です。恐らく受験生の参考にはならない部分が多いと思います。過去のノスタルジーです。

2.現実の私

 私にとっての東京学芸大学の学歴は、長く黒歴史で、出来れば消したい学歴でした。というのも、在学中にマジョリティの学生との大きなトラブルで、数か月精神的に病んでしまう経験をした事があったからです。

 そこを救ったのが研究者を目指す目標でした。図書館に籠ることで他人との関係をミニマムにした事がリハビリになった様で、徐々に講義に復帰出来ました。狭い世界なのでトラブルの事情はクラス中に広まり、不憫に思って講義のノートを援助してくれた友人、事情を理解してくれて病欠扱いにして頂いた先生には、今でも感謝しています。

 当然ながら、選択肢に母校の大学院はありません。とにかく外に行きたい一心で、1年目は広島大学だけの単願で頑張りましたが撃沈。当時の担当教員の紹介で、気は進みませんでしたが、背に腹は代えられないので東京学芸大学の任期職員をやりながら受験勉強を続けました。

 2年目はもう広島大学とは縁がないと思い、他大学を受験しました。東京大学は願書を取り寄せたところ、担当教員の推薦書等が必要で、既に担当教員が異動していた(それも東京大学に!)のでコンプライアンス的に不可能なものが多かったのでパスして、早稲田大学に絞ります。(慶応は性格的に合わなさそうだったのでパス)文学研究科と教育学研究科を受験して運よく教育学研究科で合格が決まり、東京学芸大学とやっと縁が切れることになりました。

 それ以降、私は多くの場合、出身は早稲田大学だと言っています。同窓会も早稲田大学は入っていますが、東京学芸大学は入っていませんし、入る気もありません。

 今回noteを書いていく内に、ふと学芸大学の事が何十年ぶりに蘇りました。意外にも、暗い思い出は封印されて、良かったことばかりが思い出されます。最初は2、3回で終わるつもりが、25回も続いてしまいました。それは本来「学芸大学」に不本意で入学した、自分のアイデンティティが、様々な出来事を美化する事で、理想の「学芸大学」を造り出していったのかもしれません。

 マジョリティの学生が大手を振り闊歩する中でも、当時のマイノリティの学生はみんな頑張っていました。民間就職で絶対的に不利な状況でも果敢に挑戦した友人、民間を諦めて公務員に挑戦する友人や後輩、みんな理想である「学芸大学」を体現していたのは事実です。

3.理想と現実のギャップ

  ひでこや@教育様の出会った教育大学の学生は、決して特別な学生ではないと思います。元々一定数いたそういう種類の学生しか、教育大学を志望しなくなってしまっているのだと思います。戦後の師範教育(正に今の教育大学の学生の様な学生の教育)を否定して、どこの大学でも、どの種別も教科も取得できる教員養成の開放性を謳った制度は、現在では形骸化しています。どのような職業にでも就く能力のある学生が、教員を選ぶのが本来の姿、理想の姿です。教員にしかなれない学生にする為に養成教育をするリスクに文科省のだれも気が付かないのでしょうか?

 理想ばかりを押し付ける文科省の良い例が、教師のバトンプロジェクトです。結局現場の悲惨さを世に知らしめるだけになってしまったと聞いています。こんなことを続けていたら、夢物語の中にしか学校が存在しないことになってしまいます。

 先日は19年間の教員生活にピリオドを打たれ、新しい教育の形を模索される方の話を紹介させていただきました。19年も努力された方でも、もう現場の疲弊に耐えられないのです。教育のめざす理想と現実のギャップはどんどん開いています。

 私は教員としての現場経験はありませんが、大学職員としての経験だけでも、現場は疲弊しています。大学の現場だけでも休職者が続出しているのですから、それ以上に激務であろう教員で休職者が過去最大になるのもわかります。そのうえ、勘違いした新任の教員が来た日には・・・

 政治的発言はなるべく控えていますが、今の自公政権による横暴は、憲法改正での問題点と同様に、教育勅語でも制定しかねない戦前の師範教育のようなものへの回帰が含まれており看過できません。早く止めないと教育が死にます。

 学芸大学でも、著名な先生が続々退職や異動して、昔日のような学問の殿堂ではなくなってきています。沈む船から逃げるネズミの様です。地方の教育大学はもっと悲惨でしょう。

 なんか絶望的な気分になりますが、個々の教員の実践や、新たな教育を模索する方々の行動などが、こんな絶望的な状況をブレークスルーするかもしれません。それだけがせめてもの望みです。

4.教員養成の未来はあるのか

 教員のあり方を市民レベルからも提言していかないと、お上の決めた自称専門家の専門用語が散りばらめられた提言書で、もっと悲惨な状況に陥りそうです。

 教育大学・教育学部に在学の方、卒業の方、教員の養成に興味のある方、なんか今の教員養成はおかしいと思われる方がいらっしゃいましたら、是非コメント欄や引用を利用して意見を交換ていきましょう。そして、市民レベルからの教員養成の未来について提言しければと思います。

 ぜひよろしくお願いします。ここからムーブメントを起こしましょう。



  


 



 


 


 


新たな活動の為にサポートをお願いします。コンビニコーヒー1杯分でも資料収集などには大変役立ちます。浄財を継続的な発信に生かさせていただきます。