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「本屋泥棒と縁が深い」(偽・日記1)

2021/1/8

とにかく金がなく、私ははるかむかしに捨ててしまった盗賊のこころを取り戻していた。それはつまり、スーパーで必ず無料の牛脂をもって帰り、JTの喫煙所でサンプリングを配っているお姉さんと談笑して仲良くなりこっそり3つもタバコをもらったり、もしくは本屋で短編小説やエッセイを立ち読みするこころだ。

仙台アエルに入っている丸善で文藝、新潮、文学界のなかで気になったものをぱらぱらと、しかし確実に読み耽った。『30分以上の立ち読みはご遠慮ください』と書いてあったので、きっちり29分経ったあとに洋書のコーナーに移り、価格をみて断念し、300円蕎麦をくって帰った。盗賊なので、無料のたぬきをいれまくった。あした何も食べなくても生きられるエネルギーが欲しかった。

そうして文芸誌のなかから文章を盗んで地下鉄に乗っている時、そういえば私が本屋泥棒と縁深いことを思い出した。

私の実家の本棚には某悪徳宗教の教本とサラリーマン金太郎(全巻)、私が子供の頃に読み聞かされた童話本くらいしかなく、また町に本屋はなくて、特に活字と触れる機会もなかった。橋を渡らなければ本土にいけない寂れた海辺の町で、サーファーになるかパチンコ中毒になるかネットの海に溺れてオタクになるか、という3択しかなかった。中学生にもなるとみんな町で唯一の娯楽施設であるパチンコ屋に先輩のお供で連れて行ってもらうか、自作の竹竿で釣りをするかで、私もそうだったが、残念なことに私の家はとにかく金がなく、さらに親に嫌われていたので小遣いはなくパチンコ屋にいっても楽しくなくて、釣り餌も買えないからミミズを捕獲して餌にしていたが一回刺されてから「きしょ!」となって釣りもやめてしまった。当時は盗賊度がかなり極まっていたので、自生している木苺とかぼけた老夫婦の家の柿、漁師が港で焼いている魚をもらって楽しみにしていたが、もう本当にそんなのなにも楽しくなかった。(ちなみに木苺はいっかい潰してなかに虫がいないか確かめた方がいい)

さいわい私の家から橋は程近く、橋を渡ると本屋があった。ハガレンとか、そういう漫画を読みたかったがビニールに包まれていたので読めず、中学2年生くらいの私は仕方がないので小説の立ち読みを選択した。それまで小説なんて読んだこともなかったし、興味もなく、そして読んでいる最中も大して興味がなかった。家に帰りたくなかっただけだ。

宮城県、ということもあり平積みされていた伊坂幸太郎を読んでいた。一冊目はつまらなく「は?」とおもっていたが、二冊目(たしか「魔王」だった)を読むとのめりこんでしまった。いま思うととんでもないが、当時の私は400ページくらいある文庫本を本屋に通って数冊読破していた。やべえなんだこの餓鬼、と書店員さんにおもわれていただろう。そして実際におもわれていたようで、三十代くらいの店員さんに声をかけられて、なぜか書店前の自販機でファンタを買ってくれた。つかまるのかも、とおもっていたのでだいぶ拍子抜けだった。書店員さんはそばかすが目立つ顔立ちで歯が汚いけど、声は好きな声だった。「ここね、映画になったんだよ」と言われて「なんの?」ときくと、伊坂幸太郎の「アヒルと鴨のコインロッカー」のロケ地になったんだよ、と教えてくれた。へえ、とおもって、ファンタを飲み干し、それ以降その店員さんが話しかけてくることはなかった。他の店員さんに怒られることもなかった。私の身なりが汚かったからかもしれない。当時ボロくなって友達が捨てようとしていた服をメインに生活していた。

金曜ロードショーかなにかで「アヒルと鴨のコインロッカー」がやっていて、みると私が通っていた本屋「ブックスなにわ」が濱田岳と瑛太に襲撃されていた。本屋泥棒、というか、映画の登場人物の本来の目的は本屋泥棒ではなかったが、うわあ仲間!とおもった。おもって、あ泥棒してる気でいるんだ自分は、とおもってから本屋にいくのをやめてしまった。返すのめんどいけど図書館にいくことにした。図書館通いもしていたが、中三の卒業式の日に東日本大震災がきてぶっ壊れたので結果そんなに本は借りられなかった。町は3分の2が沈んだ。私はバカなので、きらきらと瓦礫をみていた。

震災のおかげで家に金がはいり、奇跡的に高校に入学した。教室で賭けポーカーが流行っていて、私はイカサマがうまかった。勝ったら高校近くのジャスコで文庫本を買った。しかしイカサマが通じなくなり、逆に負け始め、こうなるとすっかり活字中毒になっていた私は困った。さらに部活でバンドをはじめて練習のスタジオ代もかさんできていた。そこで合法的に過去の傑作を無料で読める「あおぞら文庫」で坂口安吾とか中島敦とかを読んだ。ネットから名作を無料で窃盗し自分のパソコンに移して読みまくった。

ある日バンドの練習が終わってジャスコにいくと、マックで注文しようとして「朝10;00からなんで待ってくださいね〜」と店員にあしらわれてしょんぼりしているおじさんを見つけた。(ジャスコ内テナントなのでマックは二十四時間営業じゃなかった)バンド仲間が「あれ伊坂幸太郎じゃね?」というので、えーんなわけと言いかけたが確かに似ていたので本屋で「オーデュボンの祈り」を買ってから話しかけると確かに伊坂幸太郎だった。私が「ブックスなにわ」である種の本屋泥棒をしていたことを伝えると笑ってサインを書いてくれた。伊坂さんはこれからタランティーノのジャンゴみにいくんだよ、と言っていた。いまおもうと、私もあの映画はスクリーンでみればよかった。

大学になっても金はなかった。週5でバイトしていたが学費やバンドのスタジオ代、飲み代、デート代とかに消えていった。大学2年の夏に色々あって小説を書き始め(地方文学賞でぱぱっと金を稼ぎたかった)、その時期に知り合った小説好きの友達がこれまた図書館に本を返さない形で泥棒をしているらしく、私は私を棚に上げてdisりながら、また本泥棒だとおもった。

そんな感じで、本屋と泥棒が変に結びついている。さらに私は小説を書く時いろんなものから、ぱらっとしか読んでないものからも盗んで書いている気になる。パクって書く。まったく違う設定で、まったく違う文章で、でもパクリたいほど好きなものから魂を盗んで書く。とおもう。

盗む、は動的でいい。とおもう。受け継がれる、は強制感があって嫌いだ。盗むがいい。血とか家系とか土地とか、そういう、摂取を、継承を迫ってくるものを拒む。私は盗賊だが、たとえば私の父は2019年6月に傷害罪で捕まったが、いかれた宗教にはいっていたし家庭は崩壊していたが、私はそれを受け継がない。小説に書く気もない。盗む。私の、私の生まれた大地に最初からあった、私の肌のなかに入り込もうとする、土地の呪いや家庭の呪いじゃなくて、外にある輝かしいものらを盗んでじぶんのからだにしたい。

とはいえ、こうして25歳にもなって文芸誌を買わずに立ち読みしているのだから、きっと犯罪者の血とか田舎モラルのなさの血とか、そういうのもちゃんと混じっていて、だからいつかぜったいに血をぜんぶ抜いて私は私じゃない私に変身する気だ。デトックスに何年かかるのか、本屋泥棒じゃなくて泥棒される側にいつなれるか知らないが、もしそうなったら、おなじく本屋泥棒をしなきゃいけない子供らをみつけて懐かしめるくらいの、ファンタを奢ってやれる、そういうこころに変貌したい。

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