まりこさんに赤い毛糸の帽子を送りたい 2

まりこさんがいなくなったんだって。

灰色の空をみあげながら、彼がそう教えてくれた。わたしは、まだ、帽子を渡せてない。まり子さんの頭の上で大文字山を眺める夢は、なんだか簡単についえてしまった。

冬至を過ぎたばかりなのに。幸先が悪い気がして、すこし気持ちがざわざする。

これから、光の時間が少しずつ長くなる。空はまだ虚ろだけど、年月の大きな車輪はまわりだしている。一度動き始めたら、私たちにできることなんて、これっぽっちもない。

「なにがあったの?あの人は大学のご神体みたいなもんなんでしょう?」

「うーん。。。神様っていうよりは、妖怪かなぁ」

「じゃあ、座敷童子ね」

「まり子さんは成人だよ」

まり子さんに彼はあんまり興味がない。そもそも、大学の向かいの棟の人がノーベル賞をとったのに、いまいち顔をわかっていないし、周りのことに興味のないのだ。まり子さんについて聞き知っているのは、きっと彼のやさしさだと思う。

神さまがなくなってしまったら、大学はどうなってしまうのだろう。アカデミアの海は、見えない糸で緊密につながり合った、プレパラートくらい薄くて小さなたくさんの破片が、揺らいでいる。シャンデリアのように揺れながら、おのおのが好きなように光を照らして笑っている。なんとなくの距離感を保ち、透明で果てしなく続く深い水の表層を、揺らいでいる。

たぶん、まり子さんがいなくなったら、キラキラと笑う断片たちは、きっとバラバラになるだろう。小さい頃、インディージョーンズで見た、秘宝を持ち出された要塞みたいに、ガラガラと崩れてしまうのかしら?大きな車輪はまわりだしている。一度動き始めたら、私たちにできることなんて、これっぽっちもない。

私が憂いで心をいっぱいにしている間に、彼の話は微分積分を通り越し、ハミルトニアンとラグランジェを経て、数学者のスズキに行き着いていた。

「学問ってくっつきやすいんだよ」

「どういうこと?」

「力学と熱学がくっついて、熱力学。磁気と電気がくっついて、電磁気学。たいていは二つまでだけど、僕は三つにしたの」

じゃあ、力学と熱学からも線が伸ばせるから、小さな三角形がさらにできて結晶みたいになりそうね。そう言おうと思ってやめてみる。彼のノートには、数字が2しか出てこない。拙い筆致で丁寧に並べられた式は、本当はどんな姿をしてるのかしら。とても美しいのだと聞くけれど。

量もなく質もない世界。たぶん、プレパラートの断片みたいにキラキラとして笑っている。

小さな小さな白い砂粒の砂漠が広がっている。粉々の破片が、ねむるシャチの背のような丘陵の裏で、切り落とされて零れ落ちたダイヤモンドの破片みたいに、砂に混じって輝いている。いたるところ音もなく。わずかばかり生えた不格好でまだらな草地に、小さなカニさんがいる。体のわりに大きなハサミでせっせと砂粒をしょい込んで、つぶらな瞳で群青色の空をあおぎ、永遠にもごもごとやっている。ブクブクとふいた透明な泡で、砂粒どうしをつないでいる。

あの蟹さんは、きっと彼だ。算数の破片で、小さなおうちを造ろうとしている。もし、神さまがいたとするならば、この砂粒の破片は、遠い昔、美しい光の神殿を支える柱であったに違いない。人のさかしさとどん欲に怒った神さまが稲妻で破壊した塔のなれの果て。歳月の車輪は、果てしない時間をかけて、透明な支柱を薄片にし、石臼のようにゴリゴリと回転する。冷酷な記憶の女神の、ふうっと吹きかけた風が、気まぐれに、されど幾度となく、砂と断片を舞い上げる。私たちはすでに、調和と静止を失った世界を生きている。

なんにもない世界。神さまは、本当の言葉も繋がりもわたしたちから奪って、知らんぷりしている。意味を求めたいはずの未来でさえ、答えを用意して待っちゃくれない。

カニさんは遠い記憶に身をゆだねて、なにやらせっせと造っているのかも。小さな小さな、おうちを求めて。手のひらサイズの心地よい世界。ほんのわずかではあるのだけれど、調和の光を通す器。

「あなたって、蟹になる前は、バベルの塔の石工だったのかしら」

「バベルって何?」

彼は訝しげな目で私を見ていた。私とあなたは遠く離れている。薄皮一枚つながりながら。いいえ、本当につながっているのかしら。知らんけど。

雪がちらつきだしていた。比叡山に雪帽子をかぶせた雲があふれ出して、京都の盆地に流れ込んだのだろう。まり子さんのぺたんとした黒髪が心によぎってしまう。

あと数日で年が明ける。


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