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考えが重すぎる

ふと、考えたのでメモ程度に。

自分のnoteにも、度々出している気がするが、「何かしたい」という言葉。

言葉の重みとして、どれくらいのものを想像しているだろうか。

「暇だからちょっと買い物をしよう。」

なのか、

「新しい趣味を始めて極めるぞ」

くらいの、意気込みなのか。

「何かしたい」のその先。
「何かをした結果自分がどうなっていたいか」を想像したときに思い浮かべたのは、後者だった。

例えば、ソーシャルゲームを始めようとしたときに、暇つぶし感覚でやるのではなく、ランカーになるぞ!と意気込んで始めてしまうため、仕事などでプレイできない時間があると、すぐに熱が冷めてしまう。

最近ハマりつつある、動画編集も将来の仕事につながれ!と、思いながらしているため、撮影をする時も、どんな編集にしようか考えている時も、楽しめている反面、プレッシャーにも感じている。

「考えが重すぎる」

のだ。


このnoteはその思考をどうにかして軽くしたいと思いながら書いている。

そんな簡単ではないということはわかっている。

人は自分の過去の経験と知識を元に物事を判断するため、バイアスがかかる。
今ある思考力は自分が今まで人間を過ごし、培ってきたものであるからだ。

直したいと思った時には、
ひたむきに自分と向き合い、少しずつ少しずつ軌道修正していくしかないのだ。

おそらくこの考えもしばらくしたら頭の中からは消えてしまうため、noteに残し、度々振り返り、身も心も軽くしていきたいと思う。

皆さんの「何かしたい」と、考えた時の言葉の重さ教えてください。

さようなら

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