見出し画像

イギリス、徒然と。ー6.真っピンク部屋 その1韓国編ー

今よりも〝苦〟を少しだけでも取り除かれた生活を送れはしないかと、コインランドリーとコインシャワー、中華包丁の音の無い生活を求めて引越し先を探した。大学の真裏の寮に住む友達の生活を垣間見て、大学の近くに住みたいという願望も生まれていた。

今すぐに引っ越したいわけでもなかったし、すぐに引っ越し先が見付かるとも思っていなかったが、クラスメイトの日本人になんとなく話してみると「この間、映像課題の撮影のために同じクラスのミョナのアパートに行ったけど、すごく良い感じのところだったよと」と教えてもらい、そこから話がとんとん拍子に進んだ。

あの課題、アパートで撮影したんだ。私たちのグループは大学近くの墓地で撮影した。その時はそこが一番適していると思ったのだが、いざ撮影を終えると墓地なんかで撮影して良かったのかと不安と罪悪感に苛まれた。留学生にはメンター(mentor:良き指導者、信頼のできる相談相手の意)と呼ばれる先生がひとりずつについており、週に1回、15分くらいの面談の時間が必ず設けられていた。留学生が学業だけでなく、生活面でも問題を抱えていないか相談できる制度だった。そこで墓地での撮影について不安や懺悔を述べると、「下に埋まっているのも人間なんだからそんなの大丈夫よ!」とカラッと明るく言われた。

ミョナはクラスメイトの韓国人だ。トモエから聞いたんだけど、と話すと、一緒に住めることになったら嬉しいと言ってくれて、すぐにアパートへ案内してくれた。

ミョナの住むアパートは大学から歩いて3分くらいだった。バス通学しなくてもよくなる。街の中心からはMandfield Roadという道がずっと伸びており、その通り沿いのドアナンバーが69のアパートだった。1から順番に、奇数が道の東側、偶数が西側に番号が振られているので、69であるそのアパートがいかに中心部にあるかがわかる。

ケバブ屋とトレーディングカード屋の間に黒い鉄格子の扉があり、それが入り口だった。まるでゴミ捨て場への出入り口のような扉だし、外からはアパートの全貌がわからない造りになっていたが、コの字型の3階建になっており10人以上が住んでいた。

ミョナが住むのはMandfield Roadとは反対側に面している3階。日本で言うところの3DKで、3人でシェアするタイプ。バスルームはひとつだが、簡素な洗面台が個々の部屋付いていた。今、住んでいるのはミョナの友達で、写真科の1年生である韓国人のソヨン。あとのひとりがもうすぐ出ていくというフィリピン人で、彼女の部屋を見させてもらった。ゆとりある広さのミョナとソヨンの部屋よりもずっと小さいその部屋は壁が真っピンクだった。私は一般的に女性向けとされる色がどれも苦手なので、薄ピンクだったら拒絶していたけれど、とても濃ゆい、所謂ショッキングピンクだったので拒否感はなかったが、この中に長時間居たら頭痛がしてくるのではないかという一抹の不安はあった。ピンクは全く好きではないけれど、白い木枠の出窓のあるちいさなその部屋が気に入った。街中といえど通りには面しておらず、窓から見えるのは駐車場と、その奥に小さな会社が見えるだけだった。風呂は広くて申し分のない明るさ。狭い分、ミョナとソヨンの部屋よりも安い月180ポンド。しかも電気水道光熱費込みなので、暖房費で2万円飛んでいくなんてこともない。パキスタン人の大家と契約し、フィリピン人が出ていったらすぐに引っ越すことになった。

イギリスでの一般的な学生の引っ越しは自家用車かタクシーだった。日本のタクシーと違って、イギリスのタクシーはシートの大きさこそ変わらないが、運転席と後部座席の間にけっこうなスペースがあるので荷物がどっさり乗せられるし、タクシーで引っ越しするのはごくごく一般的なことで、運転手から驚かれることもない。でも、私が引っ越す先は街の中心地。アパートのすぐ前にはバス停もあり人通りが多い。タクシーで一気に全ての荷物を運ぶと、その人通りの多い道にすべての荷物を置かなくてはいけないし、3階まで階段で運び終わるまでの暫くの時間、道路上に放置しなくてはいけない。イギリスは、放置してあるものも放置していないものもすぐに盗まれる。そこで私は、荷物を暫くの間、道路に放置しなくても良い方法ーバスで引っ越しすることにした。

冬休み中、正月明けて間も無い頃。1日乗車券を3日買い、3日間、両手と背中に持てるだけの荷物を携えてひたすらバスで往復した。スーツケース、IKEAの青い大きな袋、大きなリュックに荷物を詰め込んで。今でも久々にイギリス時代の友達と連絡を取り合うと、「そういえばバスで引っ越ししてたよね」と言われるし、イギリス時代の友達がくれるものはやたらピンクが多くて、私自身にはピンクらしさの欠片もないから不思議に思っていたのだが、どうやらこの部屋の印象が強いらしい。

3日間で10往復くらいして引っ越しを終え、初めての真っピンク部屋での夜。あまりの静かさに、アパートの住人は皆、旅行や帰省をしていて居ないんだと思った。事実、ミョナもソヨンも韓国に帰っていたのだが、アパート全体から何の音も聞こえなかったのでそう思った。夜通し冷蔵庫のモーター音だけが響いていた。でも、何日経っても、ミョナとソヨンが帰って来ても、冬休みが終わっても静かさは変わらなかった。ここのアパートはこんなに静かなんだ、これが通常なんだ、今までがうるさすぎたんだ、ということがわかったのは引っ越しから1ヶ月経った頃だった。

とても古い建物ではあったが、静かさの他にも生活は快適だった。キッチンに洗濯機があるので、週末の半日がコインランドリーと手洗いで終わってしまうなんてこともなくなった。各部屋とキッチン、それにバスルームとトイレの便座脇にもセントラルヒーティングが付いているので寒さとは無縁だった。真っピンクの部屋は、長時間中に居ても頭痛なんかしなかった。備え付けの冷蔵庫は、それまでの家庭用金庫サイズから一般的なファミリーサイズになり、スペースを気にすることなくスーパーで買い物ができるようになった。

ミョナとソヨンは常に一緒に料理をし、食事をし、どちらかの部屋で過ごしていた。私は良い距離感というか、日頃はひとりで、イベント的な時は一緒に過ごした。

ある時、ミョナのお母さんが韓国から来て暫く滞在していた。ミョナが珍しく私の部屋をノックしてきたので何かと思ったら、一緒にご飯を食べようということで、ミョナの部屋に行った。ミョナの部屋のドアを開けると、目の前にあった光景に驚いた。床にずらっと並んだ韓国料理の量と数。それを、知らない間に来てたミョナの友達数人と一緒に床に座って囲んだ。私は、あまりまともな食事をしていなかったので、目の前のご馳走は嬉しかったが、赤色をしたものばかりで食べられそうもない。その頃の私は辛いものが苦手で、キムチすら食べられなかった。ミョナは、これは辛いからタカヨには無理かもしれない、とラーメンを指差した。いや、それだけじゃなくて赤いものは全然食べられないなんてとても言えないと思っていると、ずらっと並ぶご馳走の中にキムパッを見つけた。キムパッなら食べられそうだと皿にひとつ取ると、これと一緒に食べると美味しんだよ、とミョナは私が皿に取ったキムパッの上にキムチを載せた。どうしよう、と思いつつも、わざわざ載せてくれたんだから食べないわけにはいかない。思い切ってキムチと一緒にキムパッを食べてみたら美味しく、自分でも驚く程すんなりキムチの辛さを受け入れられ、この時からキムチをはじめ辛いものが食べられるようになった。このキムチ載せキムパッが食べられなければ、今ここで私が食べるものは何も無いという崖っぷち感が働いたのだと思う。

アパート1階のケバブ屋はわりと繁盛していた。常に窓を開けっ放しにしているキッチンには年中、バーベキューの香りが立ち込めた。ケバブ屋の店員は皆、トルコ人だった。店長がナインティナインの岡村隆史にそっくりだったので一度、話してみたかったのだが、私は店に入らずとも、ケバブ屋とトレーディングカード屋の間から出入りするだけでも、あるひとりの店員にいつも話し掛けられた。私はインド人とトルコ人からだけはやたらと話し掛けられる習性がある。ノッティンガムに来て初めてMandfield Roadを歩いた時も話しかけてきた人は頭にターバンを巻いたインド人だった。

ある夜、友達と街中にある世界一小さな映画館でリングと呪怨の二本立てを見た後。ケバブ屋の前を通ると例の男性に声を掛けられた。いつもなら軽く挨拶をしてそそくさと立ち去るのだが、その日は「店に寄っていきなよ」という誘いに、始めてケバブ屋に入った。ホラー映画を観た後で、このまま部屋に帰るのが怖かったのだ。店の一番奥の席で紅茶を淹れてくれた。勤務中ではないのか、働かなくてよいのか、彼は私と同じテーブルにつき、ホラー映画の余韻が薄れるまでおしゃべりをした。本当なのか調べても未だに確認が取れないが、箪笥はトルコ語でも「タンス」なんだよ、と教えてもらったりした。岡村隆史に似た店員は一生懸命仕事しており、話し掛けれなかった。

平穏だった真っピンク部屋での生活に、ある日突然、不穏な空気が立ち込めた。ミョナの部屋の前に出された段ボールやたくさんのゴミ。大学準備コースを辞め、韓国に帰って大検を受けることにしたと言うのだ。ミョナは韓国の高校を中退していた。ここにあるものはみんな要らないものだから、欲しいものがあったら持っていって良いよ、と言われた。テキスタイルに使える大きな糸一巻き、レザーのハギレに、小物入れにしよう、とフェラガモの空の靴箱をもらった。ミョナはブランドものをたくさん持っていたからお金持ちなんだと思う。

ミョナは学校にも大家にも手続きを取ることなく韓国に帰って行った。クラスに姿を現さなくなってから数ヶ月が経っていたから私は驚きはしなかった。ある時、コースの主任から「あなたがミョナと一緒に住んでいると聞いたけど、本当なの?」と訊かれた。全然出席してこない生徒と、ほとんど欠席しない生徒が一緒に住んでいるはずは無いと、信じていない様子で訊かれた。一緒に住んでいます、と言うと、手紙を託された。やってはいけないことだとその時も十分にわかっていたけれど、私は封筒に入ったその手紙を、ミョナに渡す前に太陽の陽に透かしてみた。英語の文が三つ折りになって重なっているのでそう読み取れるものではなかったが、’I’ve had enough of your atitude’という箇所だけ読み取れた。どれも知っている単語なのにこの一文の意味することがわからず、辞書で調べて「あなたの態度にはもううんざりです」という意味に行き着いた。そういえばミョナは去年もこのコースに在籍していたけれど、何らかの理由で今年が2年目だと耳にしたことがあった。ミョナに手紙を渡したのは1ヶ月くらい前だったか。フェラガモの靴箱をもらってから数日後にミョナの部屋は空き部屋になった。ある日、いつもの様に3人分の家賃を取りに来た大家にミョナはもういないよ、と伝えると驚いていた。突然出て行ったことよりも、デポジットを受け取らずに出て行ったことに驚いている様子だった。少しすると学期末になり、来年度に向けてソヨンも引っ越して行った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?