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石井光太『ルポ誰が国語力を殺すのか』読了記録

○はじめに

みなさん、お久しぶりです😆

今年は1月から異様に新作ゲームラッシュが続いており、それ以外に割く時間が取れず投稿できていませんでした😅

今日はその分考えたことや書きたかったことをいくつか投稿予定ですのでぜひ読んでいただけると幸いです🙏

まずは読了記録として石井光太『ルポ誰が国語力を殺すのか』から取り上げます📚


○概要〜国語力はなぜ低下したのか〜

この本の序章で取り上げられている「『ごんぎつね』の読めない小学生」は話題になり、書評やネットニュースでご覧になった方もいらっしゃるのではないだろうか。

問題として取り上げられているのは『ごんぎつね』での一説で、きつねのごんが兵十の母親の葬儀に出くわす場面。準備のため家の前で大きな鍋で煮込んでいる描写が登場するのだが、小学生に「この鍋では何を煮ているのか」という問いを3〜4人ごとの8つの班に分けて考えさせた。すると、「死体を鍋で煮ている」という回答をそのうちの5班が答えたそうだ。

葬儀で鍋を煮ているのは「客に鍋を振る舞うため」だ。それを答えられないのは読解力以前に想像力や別のものを繋げて考える力などが足りないからだと本書では結論づけている。果たしてそれは本当なのだろうか。


○『葬送のフリーレン』から考える想像力

最近Xでとあるポストが流れてきた。内容としては、週刊少年サンデーで連載されている山田鐘人原作・アベツカサ漫画『葬送のフリーレン』に登場する「エルフ」という種族が分からないから話に没入できないという意見を見たという内容だった。

『葬送のフリーレン』は、勇者ヒンメルのパーティに所属するエルフの魔術師フリーレンが、ヒンメル達の死後「人間とはなにか」という答えを探究する旅という後日譚を描いたファンタジー漫画である。

『葬送のフリーレン』

エルフとはファンタジー小説などで登場する長命の種族である。フリーレンはその種族であり、人間が短い命の間に何を考え、何を遺すのか。その種族の違いの視点から「人間とは何か」を考えさせられる物語のため、そもそも「エルフ」を知らないと物語を理解できない場面があるだろう。

なぜこの話を取り上げたのかというと、「国語力以前の問題として想像力が足りない」という考えに自分は違和感を持ったからだ。

想像するためにはまず「前提の知識」が必要。先程の『ごんぎつね』での設問で考えてみると、「葬儀で鍋を煮るのはお客に振る舞うため」と答えるためには、「生徒は葬儀を知っている」という前提があって出題されたはずだ。しかし、葬儀に参加したことがある生徒はおそらく少ないだろう。

『葬送のフリーレン』も読む以前にファンタジー作品に触れてこなかったのであれば「エルフ」という種族を知らずに生きてきたはずである。

比較的に身近に例えれば、『ごんぎつね』の問いは、古典作品や近代小説など時代や文化の背景が違う作品を前提の説明なしに「この文の意味を答えよ」と問うているのと同じなのではないだろうか。


○教育ではなく「共育」の時代

死体を煮ているという発想はおそらく普段生徒が見ているゲームやアニメなどから得た発想だろう。そこで考えないといけないことは、教師=大人と生徒=子供・若者で持っている「常識」は違うということ。まずは「前提を共有する」ことが必要。0から1を想像するのは難儀だし、最近流行りのアクティブ・ラーニングや対話もそもそもその議題に関することをある程度知らないと発言できない。

ここから自分は、教えて育てる教育から共に育つ共育の時代に進むべきではないだろうかと考えた。「今の生徒がこの問題がわからないのはなぜだろうか」と考える前にちゃんと前提を提示したかどうか、自分の常識に従っていないかどうかを自己反省しつつ、「こういう発想になるんだな」という気づきを教師も得ていく姿勢が必要なのではないだろうか。

物事をある程度教えることができる人はおそらく知識や理解力が高く、「なぜこの問題を解けないのか」という問題にぶつかることもあるだろう(自分も塾講師をしていた際に感じたことがある)。まずはどこがわからないのか、それが根本の問題であればそこに立ち返って復習する時間を取る。そもそも論は大人でも聞かれると難しく、学びになることも多い。

さらにこの問題は会社での人材育成でも発生するのではないだろうか。「弊社の課題について」考えるとしても現場を知らない人やまだその世界を知らない新人が提案できるものではない。

「自分の常識は他人の非常識」ーこの言葉を胸に今後も学び続けていきたい。

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