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約10年ぶりに読んでみて気づいたこと/村上春樹『風の歌を聴け』(講談社文庫、1982)

 昔は本の本扉に読み終わった日付を付ける習慣があった。いつの間にかその習慣は無くなったが、学生時代や、仕事を始めてからもしばらくの間は、読み終わった日付、時には場所を書いたりしていた。

 私が持っている講談社文庫版の『風の歌を聴け』の本扉には、書名の上にいくつもの日付が書いてある。最初の日付は「1999年8月10日」、高校一年生の夏休みだ。その後、「2001年8月16日」「2002年5月22日」これは上京して大学一年の新学期が始まった頃、それから「2004年」に二度読んでいて、それからしばらく時間が空いて「2015年7月9日」となっている。これは初めて就職した年だ。それから時が過ぎ、今日そこに「2024年7月16日」と新たに書き込んだ。

 大学生の「僕」が夏休みに帰省して、友人と気だるい日々を過ごす物語だからか、これまで夏に読み返してきた痕跡があった。あとは、新学期が始まって一ヶ月くらい経った頃、とか、就職してしばらく経った頃とか、そういう少し疲れてきた時期に読み返しているようだ。作品全体に漂うどこか厭世的な気分に引きづられているのか、それとも、そういう少し日常に疲れてきている時期に、小説を読みたくなるものなのかもしれない。

 村上春樹が初めて読んだ小説という人も少なくないと思うが、私が村上春樹を読んだのは、初めて小説を読んでからだいぶ経ってからだ。でもその方が、より村上春樹の面白さが伝わると思っている。例えば、夏目漱石とか、芥川龍之介とか、そういういわゆる「純文学」を少しでも読んで文学のイメージを作ってから村上春樹を読むと、少なからず衝撃を受ける。文学はこんなにも軽やかで自由なのかと、急に現代人と会ったみたいな気分になる。クラシックで言えば、正統的なバッハを一通り聴いたり習ったりした後に、グレン・グールドとかヴァレリー・アファナシェフの演奏を聴いて衝撃を受けるようなものだろう。こんな風に弾いてもいいのか!(先生に怒られそう)とか、クラシック音楽のイメージが変わった!とか、そういう風に思うかもしれない。

 というわけで、村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』を約10年ぶりに読んだ感想を書き留めておこう。作品自体は変わらないが、それを受容する個人や社会の側が変わってきて、読むことで得られる印象も、きっとだいぶ違うものになってきている。そして、そうした変化が最も感じられるのが、私にとって村上春樹だ。それにそもそも、多くの小説は読み返す気にならない。でも村上春樹だけは、なぜか定期的に読み返す。その度に、自分自身の価値観や読書感の変化を反映して、違った気づきを私に与えてくれる。

 まず、全体の雰囲気としてふざけているというか、洒落がきいたセリフが多い。軽い会話でもちょっとしたジョークを言い合う。そういう感覚があるということ。それは時代によるものなのか、あるいはアメリカの文学の影響か、たぶんその両方だろう。会話で楽しませよう、会話で遊んでやろうという、作者の感覚が伝わってくる。村上春樹がその後多くの作品を訳すことになるレイモンド・チャンドラーなんかを読んでいると、やっぱり会話はおしゃれで、一捻り必ずある。

 時々、昔の雑誌でインタビュー記事などを読むと、なんでこの人はこんなに調子に乗っているんだろうと思うことがある。それは多分時代特有の楽観的な空気が伝わってくるからだろう。90年代のバブル崩壊以後には、どんどんどんどん楽観的な気分は薄れていき、現在に至る。バブルの時代を生きた人と、それ以降の人とでは、たぶん根底にあるマインドがまるで違うと思う。

 村上春樹がどういう人だかはしらないが、少なくとも本作品にはそうした時代の影響がある。悲惨なことを言っていても、どこか煌びやかで、楽しそうで、洒落っ気がある。つまりどこかで余裕が感じられる。それが今と当時の違いなのだろう。今は何もかもが貧乏くさく、政治的に潔癖で、他人の悪口ばかり言っている。しかも面白さよりも切実さの方が必ず勝ってしまうから、拮抗する面白さがない。

 この作品にはTシャツのイラストが入っていたりするところが一番わかりやすいが、シュールな会話や作品内作品が登場するが、たぶんそのどれもがカート・ヴォネガットの影響だと、今回改めて読んでみて思った。基本的にはリアリズム小説でありながら、どこか地に足のついた生活や感覚を突き放して、遠くから語っているような無感覚さがある。社会に対する醒めた目線といってもいいかもしれないが、どこか諦めのような雰囲気が全体に漂っている。

  それから、よく村上春樹を読む時に言われる「女性の描き方」だが、会話文に「〜だわ」とか、「〜よ」「〜わよ」とか、女性を示す語尾がとても多いのが、今から読むと気になる。これもまた、時代ということもあるし、翻訳小説の多くがこういう男女がはっきりと分かれた表現を採用していたこともあるのだろう。

「あなたは何してるの?」
「大学に通ってる。東京のね。」
「帰省中なのね。」
「そう。」
「何を勉強してるの?」
「生物学、動物が好きなんだ。」
「私も好きよ。」

村上春樹『風の歌を聴け』(講談社文庫、1982年、18頁)

 こういう会話をとってみても、「〜の?」「なのね。」「好きよ」という語尾が登場する。だからどうというわけでもないが、今の小説でこれくらい男女をはっきり描き分けるものは少ないかもしれない。それは社会全体が、男女を生物学的本質で分けるということを嫌う時代だからだろう。でも、村上春樹の場合は、その辺りはあまりアップデートされていなくて、たぶんその後の作品でもこうした語尾を使い続けている。

 村上春樹は、公的な政治的ステートメントなどでは、例えばエルサレム賞の受賞スピーチでの「壁と卵」の話だとか、オウムや神戸の震災、原発などへの言及においては、その後どんどんリベラル的な傾向を示すようになるが、その一方で、小説自体においては、古風なスタイルのまま、変わらない。それはたぶん、彼が影響を受けた過去の海外文学や、その翻訳文のスタイルを踏襲しているからだろう。

 また、よく言われるように、文化的固有名詞が多い。言及というほどではなくても、ちょっとした会話や語りの表現に、例えばボブ・ディランやビーチ・ボーイズ、 ジョン・F・ケネディなど、名前が散りばめられている。他にも酒の名前や車の名前などもたくさんでてくる。村上春樹の固有名詞は、その小説が描く時代に読者を誘う。

 小説の構成としては、約40の断章から成っていて、つまり断片的。パッパッと場面が変わっていく。これが映画的とまでは言えるのかわからないが、一つのシーンを描いて、その次にすぐいく。移り変わりが早いので、あまり観念的な展開になりにくいかもしれない。また、ぶつ切りにすることで、会話のキレがより増す。一つ一つの冗談のオチのようなものを作りやすい。

 構成としてもコラージュのように断片を切り貼りしているように見えるし、内容的にも、固有名がコラージュされてリアリティを出している(あるいはリアリティを混乱させる)。すぐに次のものに移り変わるという意味で消費主義的な作りと言えるかもしれない。あるいは、先ほど言ったように、カットを繋いで作る映画の手法に近いと言えるかもしれないし、単純にカタカナの名刺を多く出すことで、重い純文学と一線を画しているようにも思える。

 「僕」の親友、鼠は裕福な家庭に生まれたが、現在では金持ちを憎んでいるという設定がいい。でも自分自身も金持ちなので、罪悪感と批判的な気持ちに引き裂かれている。

 「(前略)金持ちであり続けるためには何も要らない。人工衛星にガソリンが要らないのと同じさ。グルグルと同じところを回ってりゃいいんだよ。でもね、俺はそうじゃないし、あんただって違う。生きるためには考え続けなくちゃならない。明日の天気のことから、風呂の栓のサイズまでね。そうだろ?」

村上春樹『風の歌を聴け』(講談社文庫、1982年、17頁)

 「僕」がどこか無感覚で諦めを感じさせる、自分の感情をうまく表現できない人物として描かれるのに対して、鼠は、金持ちや社会の欺瞞に対してはっきりと批判を口にする。よく言われるように、二人は表裏一体の関係になっている。「生きるためには考え続けなくちゃならない。」と言った後の「明日の天気のことから、風呂の栓のサイズまで」というのがいい。本当に実感がこもっている。

 また「僕」に「犬の漫才師」と呼ばれてしまうラジオDJの挿話が時々挟み込まれるのが、彼はちょっとした喜劇役者のような役回りなのだが、意外に効いている。彼は「僕」に番組内で電話をかけ、ある女性からリクエスト曲が君にプレゼントされた、と告げる。それがビーチボーイズの「カリフォルニア・ガールズ」だ。ラジオDJの断章と「僕の断章は別の場面として出てくるのだが、その二つがひょんなことから接続される。村上春樹の小説には、後にも、電話や間違い電話のモチーフが印象的に登場するが、この場面はその原型と言えるかもしれない。そこで、「僕」はその女性からレコードを借りたっきりなくしてしまったことを思い出す。また、物語後半では、ラジオDJが難病の女性の手紙を読むくだりも、何度読んでも感動してしまう。

 物語の最後には、「デレク・ハートフィールド再びーーあとがきにかえて」という文章が置かれ、デレク・ハートフィールドという架空の作家について語られるが、その最後に「村上春樹」という署名がある。ここまで読者は小説というつもりで、フィクションを読んでいたつもりでいたのだが、ここで作家自身の名前が記されることで、足場を切り崩されたような不思議な気持ちになる。色々と趣向が凝らされた工夫が全体に見える小説ではあるが、実はこの最後の「村上春樹」という署名が一番面白いところかもしれない。その後も、村上春樹は短編などで、たまに本人の名前を出す。「私、村上が…」みたいに言い出したりする作品がある。さらっと書いているが、村上春樹は意外と前衛的なところもある。

 色々言えることはあるが、総じて、この本が薄いのがよいのかもしれない。購入時の定価が352円(税別)というのもすごい。ページ数も広告を入れて160ページしかない。これくらいだと繰り返し読める。私がこの本を繰り返し読んでいるのも、やはり分量の問題もあるだろう。気軽に読み始められるし、しかもページ数もさることながら、会話がやたらと多いので、ぐんぐん読み進められるということもある。

 今日はなんだか説明書のような単調な書き方になってしまった。今更自分の今日の話を書くのもアレなので、これで終わりにしよう。明日も早い。

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