短歌に心を奪われる理由/木下龍也『すごい短歌部』(講談社、2024年)
久しぶりに偏頭痛の奴が来た。夕方早めに退社して最寄駅から家までの坂を上る間に目がチカチカして焦点が合わなくなった。毎回同じ症状が現れるのは面白いが、そのうち頭痛が始まるので、面白がっている余裕がない。結局、本も読めなければテレビも観れない。その上子供の世話も大してできないとなれば、私などいても何の価値もないということで、子供が寝ると同時に私も寝床に入って朝までただ眠った。そうでなくても、最近はすぐに寝てしまう。
数ヶ月に一度、こういうどうしようもなく役に立たない時期がくる。ふだんだって何の役に立っていないのに、ますますいるのかいないのかわからないような存在になる。でもそういうときはむしろ、自分が何かの役に立つという責務を免除されたような気持ちにもなる。ただ寝ていてもいいのだ。だって起きていても仕方ないのだから。部屋の電気を消して、布団を寝室から出し、居間の隅っこで眠る。その本気じゃない、ただ少し横になっているだけのような寝方が私は好きだ。
私はいまでも時々文藝誌というものを買うことがある。保坂和志が好きなので、保坂和志の連載の載っている講談社の『群像』が多い。この間『群像』を買ったら、歌人の木下龍也の「群像短歌部」という連載が載っていた。読者からテーマに沿った短歌を募集してそれを木下が批評し、最後に木下自らも一つ短歌を作るというものだ。確か『群像』には穂村弘も似たようなコンセプトの連載をしていたような気がするが、その辺りはどうなっているのか、微かに気になった。
木下龍也は『きみを嫌いなやつはクズだよ』とか、読者にテーマを決めてもらって短歌をプレゼントする企画から生まれた『あなたのための短歌集』っという歌集がこれまでも好きだった。谷川俊太郎との共著も出していて、おそらく短歌の世界では注目の若手という枠に入るだろう。私も彼の歌集は何冊か持っていたし、『群像』を読んでみて、連載が単行本になるらしいことは知っていた。
素晴らしい本だった。選ばれた短歌もどれもいい。木下の批評というか、選評というか、解釈というか、それが添えられているスタイルも良くて、短歌だけ読んでもいいし、木下のコメントを合わせてよんでもいいし、そういう自由な使い方ができる本だと思う。
それにしても、短歌というのはどうしてこうも心揺り動かされるのか。同じようなことを例えば散文で書いても、そうは感動しないに違いない。短歌だからこそ、短歌の抑揚と、長いようで短い31文字の中にやや無理やり詰め込まれた言葉の塊だからこそ、私はそのリズムに乗せられて心がぎゅっと掴まれるのかもしれない。そのいわゆる「エモさ」が、人を虜にするのかもしれない。その意味では、短歌は、音楽の歌詞などにも近いものなのかもしれない。共通点は、リズムにある程度制約があることだ。
この本の中でどの短歌が良かったかなと改めて考えてみると、意外なことに、この本の中で選ばれ論じられている短歌ではなく、たまたま木下のコメントの中に出てきた、木下と岡野大嗣の共著『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』という著書のタイトルを見て、その書名自体が短歌の形になっているのだが、それに心を持っていかれた。私はこの短歌を例えば以下のように解釈したのかもしれない。
玄関の覗き穴の向こうから光が差してくる。きっと窓の向こうは明るいのだろう。それが光線のように、細く真っ直ぐこちらに向かって差してくる。翻って私たちはその手前側にある暗闇の中にいる。「生まれたはずだ」という、生まれてくるのはおそらく子供だ。そのあまりに鮮烈な光に対して、私たち大人は、少しずつ光を失っていく。見失っていくといった方が正確なのかもしれない。私たちは誰しもがそうした、衝撃的なまでの光の線のように生まれたはずだ。そのように、人々に鮮烈な希望と刺激を与える存在だったはずなのに、気づけばそうしたもの、鮮やかさは減衰し、ただこの暗闇に目が慣れている。そこには私たちが見飽きて色褪せた光景がある。
「はずだ」という最後の三文字が、すべてを包んでいる。「生まれたのだ」ではない。「はずだ」という理想を思い求めているような、本来はそのようだったはずなのに、今は違う。そういう焦がれる心、憤り、不満、不信、幻滅、失望、そうした思いが「はずだ」には込められている。反実仮想的な言葉だ。私はこの短歌に、まさに光が差すように心の中を照らされた感じがした。
子供は、世界にとって希望であり未来だ。ということは容易いが、その情景はやはり、この短歌のように、暗闇の中に差してくる光のようだというのは、感覚的にとてもよくわかるのだ。光を見たくなる大人の側の思い込みかもしれないが、その光は全てを包み肯定してくれるものだ。だから新約聖書の福音書は、イエスの生誕の物語から始まる。それは誰もが暗闇で待ち構えている世界に、一筋の光が差すような物語だ。「光」という言葉は否応なく、宗教的な意味合いを帯びている。
私は短歌は詠まないが、散文でこういう、暗闇に光が差すような瞬間を生み出したいと思って、日々こういう場所に文章を書きつけている。散文もまた、短歌のように時にリズムの波に乗り、時に定型に嵌まり込みながら、人の心に接近する場合がある。私が文章を書く意味とは、別に世界への貢献や情報を与えるようなものではなく、そうした心の揺れをいくつ作り出せるかということなのかもしれない。