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愛されキャラが起こした台風「カラマーゾフの兄弟」

自分もとうとうドストエフスキーを読むような大人になったのか、としみじみ感じる次第です。
ただ読んでみて分かったのは、どちらかと言うとエンタメ小説だったので、もっと肩の力を抜いて楽しんで読めば良かったなと思いました。
そう後悔させられるくらいには、この本はずば抜けて面白かったです。

カラマーゾフの兄弟には翻訳本がいくつもあるのですが、僕は亀山さんの翻訳で読みました。
現代語訳で書かれているので、スッと話が入ってきます。

また、このご時世にロシア文学を取り扱うのもいかがなものかと思ったのですが、創作物はそれとして一つの完成形なので、ご時世とかは気にしない方がいいという結論に至りました。
あらかじめご了承くださいませ。

登場人物と概要

この本にはたくさんの登場人物が存在するのですが、今回はこのnoteで触れる人物のみに絞って紹介します。

アレクセイ:カラマーゾフ家の三男(後妻ソフィアの子)
イワン:カラマーゾフ家の二男(後妻ソフィアの子)
ドミートリー:カラマーゾフ家の長男(先妻アデライーダの子)
フョードル:カラマーゾフ家の父親
スメルジャコフ:カラマーゾフ家の下男
コーリャ:自称「社会主義者」の少年

時代背景は、この本が文芸雑誌にて連載された1879年からおよそ13年前のロシアを舞台としている。
歴史的観点から言えば、1861年に農奴解放、1864 年に司法制度が改革された直後で、のちにロシア内で革命が起こる直前にあたるという、まさに混迷を極めた時代でもある。

あらすじ引用
父親フョードル・カラマーゾフは、圧倒的に粗野で精力的、好色きわまりない男だ。ミーチャ、イワン、アリョーシャの3人兄弟が家に戻り、その父親とともに妖艶な美人をめぐって繰り広げる葛藤。アリョーシャは、慈愛あふれるゾシマ長老に救いを求めるが……。

考察

「愛されキャラが起こした台風」について

僕はドストエフスキーの小説はまだこれしか読んでないのでなんとも言えないのですが、この作者が描く主要登場人物には大抵罪がつきまとうらしいです。
これを踏まえた上で、主要人物それぞれの罪をまとめた場合、おそらくこうなると思います。

フョードル:育児放棄
ドミートリー:傷害と横領
イワン:危険思想の布教

では、アレクセイの犯した罪はなんでしょうか。
個人的な見解としては、登場人物のみんなを焚きつけたことにあると思います。

アレクセイには何の落ち度もないのですが、アレクセイがいい人すぎて、登場人物の全員が本人を前にして本音を吐いています。
そうすることによって本音を再確認した登場人物たちは、それぞれが思い思いの行動を起こすことになります。

この小説の冒頭で、アレクセイをこの小説の主人公に据えた理由について「読めば分かる」と述べられているのですが、こう考えると分かりやすいと思います。

この小説は、聞き役である愛されキャラのアレクセイを中心にして話が動いていくので、物語的には主人公に最適なんです。

アレクセイが本音を引き出して行動させる。そして他の人の本音を引き出している最中にさっきの人は問題を起こす。この繰り返し。
こうして俗世間を本音で満たしたにも関わらず、当の本人は何の自覚もない。
さながら台風の目みたいな存在です。

愛されすぎる人は知らず知らずのうちに事件を起こさせているかもしれないので、とりあえずはそれを自覚しましょうね。
もしかしたら裏では大変なことになっているかもしれないので。

スメルジャコフについて

ここからが主題です。
ここからはネタバレを多く含むので、まだ原作を見てない方はご遠慮ください。


僕がここで考察したいことは、スメルジャコフの出生についてです。

物語内では、フワッとフョードルの私生児的な書かれ方をしていて、漫画版ではそれをスメルジャコフ自らイワンに自白するというシーンまで付け加えられているらしいです(これをイワンに自白するのは深みに欠けると思うので、個人的にはなしです)。

僕も初めはフョードルの私生児だろうなと思っていたのですが、読み進めていくうちに、本当にそうか?と思うようになりました。

そもそもなぜそんなことに思い至ったのか、きっかけは法廷内での「カラマーゾフ的血筋」という発言です。
カラマーゾフ的血筋とは、あらゆる両極端を一緒くたにできるし、ふたつの深みを同時に眺めることができる、という意味です。

ここから読み取れることは、カラマーゾフ家の人間は二つの相反することで思い悩む特徴があるということだと思います。

では、カラマーゾフ家の人間はいったい何に思い悩んでいたか、まとめてみました。

フョードル:合理性<堪え性
ドミートリー:堪え性と誠実さ
イワン:合理性<偶像崇拝?
アレクセイ:偶像崇拝と現実主義?

具体的な描写で説明します。

フョードルが堪え性を優先したシーンは、スメルジャコフに殺される直前のことです。スメルジャコフの態度に怪しさを抱きながら、愛する女がすぐそばに来ているかもしれないという欲望に負けたことがその証明になると思います。
ドミートリーはおそらくまだ悩みに対して決断がついてないですが、大雑把に、金使いの粗さと嘘偽りない点です。
イワンについては、あれを偶像崇拝と呼んでいいのか分からないですが、神がいるかいないかで思い悩んだイワンの悲しき結末としてこの言葉を選びました。
アレクセイについても、まだ決断がついてないですが、長老の死から明らかに現実的な発言を繰り返すようになりました。犯人はスメルジャコフだと断定したことが何よりの変化の証だと思います。

カラマーゾフ家が相反することで「思い悩む」血筋であることがお分かりいただけたと思います。

では、スメルジャコフはどうでしょうか。

スメルジャコフの心象が映されたシーンは少ないのですが、個人的にはあまり思い悩んでいないように見えました。
スメルジャコフの心象について、分かる限りさらっていきます。

スメルジャーシチャという、神がかり的な女性のお腹から産まれたことを恥じている。
おそらくスメルジャコフ自身はフョードルが父親だろうと確信していたが、フョードルにはその認識はなかった。そのため息子としては見てもらえずに、下男としてカラマーゾフ家に仕えることになる。
イワンから聞かされた「神がいなければ全てが許される」という思想に傾倒する。
その後チャンスが訪れ、フョードルを殺す。
そしてドミートリーの裁判の前日に首を吊る。

こうして要点のみをかいつまむと、どこにも救いがないことが分かりますね。

ただ、この首を吊るシーンにしても時間軸的に考えると、イワンがスメルジャコフ宅から戻って幻覚と戦う時間が1時間30分。また、マリアがスメルジャコフの首吊りを発見してアレクセイに知らせ、警察に報告してからイワン宅へ出向くのも1時間30分です。
要するに、思い悩んだ時間が1秒たりともないのではないか、という考察です。

相反する二つのことで思い悩むのがカラマーゾフ的血筋なのに、スメルジャコフは一切迷うことなく首吊りを決断した。
ということは、スメルジャコフはカラマーゾフの血筋ではない。
これがこの考察の結論です。

もしこの考察が当たっているとすれば、スメルジャコフはどこまで報われない人間なのでしょうか。
勘違いで他人を殺して、その証拠隠蔽のために自殺を図る。
明らかに恵まれていない生涯ですが、しかし誰が悪いかと言われると難しいものがあります。
教養の足りない自分には救い方が分かりません。

スメルジャコフの父親について

では、スメルジャコフの父親は誰なのか。ここからは多分な推測が混じるため、根拠はありません。
ご承知おきください。

僕個人としては、スメルジャコフとコーリャが似た者同士なのが気になります。

そもそもこの小説は、細部まで作り込まれていてキャラ立ちがしっかりしているため、カラマーゾフ兄弟以外には似た者同士なんて一人もいません。

しかしこの二人は、幼少の頃から本に精通し、小難しい知性を携えてました。
ただしそれを扱いきれないせいで、いっぱしの思想を掲げることになります。

スメルジャコフは自分より博学なイワンの啓示する思想に対し、傾倒はしたものの疑ってかかることはありませんでした。
またコーリャについても、アレクセイが発する言葉を信じて疑わない様子です。

この共通点を踏まえると、スメルジャコフとコーリャは腹違いの兄弟なのでは?という疑問が湧いてきます。

結論として、スメルジャコフの父親は十二等官クラソートキンではないか、となります。

ただ、クラソートキンの描写についてはあまりに少ないため、どうとでもでっちあげることが可能です。
なので、あくまで可能性の一つということになります。

第二の小説について

スメルジャコフとコーリャが兄弟かもしれない。
そう考えると、第二の小説への流れがスムーズになります。

そもそもカラマーゾフの兄弟とは、第一、第二の小説からなるアレクセイの一代記という前置きがあったのですが、第一の小説を書き上げたタイミングで作者のドストエフスキーが亡くなってしまったため、未完の大作として広く知られるようになりました。

ここからは、もうお目にかかることのできない第二の小説について、もし続きを作るとしたらこうなる、という妄想を繰り広げることにします。

スメルジャコフとコーリャが兄弟で似た者同士なのであれば、コーリャも同じように誰かの思想に傾倒することになると思います。
そしてその相手は間違いなくアレクセイです。
アレクセイから何かしらの思想を受け取ったコーリャが、その思想を自分なりに理論武装して、これまた何かしらの事件を起こすと思います。

これはもう安直な考えなのですが、コーリャが既に掲げている社会主義に対して、アレクセイの掲げる「みんなを愛する」という思想を組み込むのではないでしょうか。

具体的に言えば、社会主義に傾倒するのであれば「みんな」の輪に加えてあげる。
反対するのであれば仲間はずれにする。
これを社会規模で展開することによって、何かしら「父殺し」に類似する諍いを起こす。

コーリャに父はいないので、それに代わるものは「国」ないし「宗教」ですかね。

新しい宗教を打ち立てて、神以外の偶像を据え置く。
それのモチーフになるのがアレクセイ。

こんなところでしょうか。ちょっと安直かもしれないですね。
しかしロシア国内の時代背景を考えた場合、こんなことを考えてもおかしくはない気がします。


こういうことにばっかり頭を働かせ過ぎたせいで、読み終わった後に少し知恵熱が出ました。
自分もドストエフスキーの掲げた思想を使いこなせてないかもしれないです。
もう少し肩の力を抜いて楽しめばよかったです。

感想

面白かったですし、面白さの種類にしてもエンタメ的な面白さがありました。
扱う題材、完璧な構成、言葉の重み、独特なキャラ、そしてこの小説内で提示した結論。
これはもうドストエフスキーの自伝小説的な位置付けにしてもいい気がします。
身分の不自然さに思い悩んだであろうドストエフスキーが、物語の最後の判決で有罪を下したことも、その時代を象徴するものとして深く訴えてくるものがあります。
現代において百姓的な身分にいる自分ですら、ドミートリーの有罪が確定したとき、可哀想とは思いながら、ほんの一ミリで「ざまぁ」と感じたのも事実です。
それがこの時代においてはなおさらでしょうし、この世の不自然を凝縮させたようなシーンだと思います。
あとはとりあえずアレクセイがいいやつです。よく笑って、よく分かってくれる人は愛されますよね。
アレクセイと友達になりたい人生だったかもしれません。

まだ読んでない方。
「ドストエフスキー」という神々しい名前に気圧される必要はないと思います。
これは多面的な面白さが含まれている、分かりやすく言うなら「人間失格」的な物語なので、誰が読んだって楽しめると思います。
時代背景さえ理解出来ていれば特に難しい話ではないので、ぜひおすすめしたいですね。

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