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第2章 日本橋川の変遷(第1節・第2節)

第1節 時期区分

 日本橋川の歴史を述べる上で、時間の流れを四つの時期に分けて整理することにする。これにより、水路の果たした役割の変化がはっきりすると考えられる。

第1期:江戸城城下町の形成と発展期
第2期:水運の衰微期
第3期:水運の転換期
第4期:水路としての終焉期

 第1期では、江戸の町と城郭の整備による河川の付け替えや水路の開削など、水路の整備がおこなわれた、主に江戸時代前半についての日本橋川との関わり合いを、第2期では、江戸〜東京市街に広く整備された水路網を利用しての水運の役割の変化と日本橋川について述べる。

 第3期では、関東大震災以降、太平洋戦争後(戦後)までの水運の衰退〜壊滅について、第4期では、水路の埋立と水路周辺の環境の変化について述べる。

第2節 江戸城城下町形成と発展期(第1期)

1)中世の日本橋川

 平川(神田川・日本橋川の古称)は、隅田川とともに江戸の町の形成に大きく関わった河川である。近世以前の平川は、四谷・牛込両台地間の長延寺谷からの流れと、牛込・小石川両台地間(現、神田川)および、小石川・本郷両台地間の低地の流れ(旧小石川)を集め、江戸城の東側を廻り日比谷入江へと注いでいた(図2-1)。

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図2-1 中世の日本橋川
資料:鈴木理夫『江戸の川・東京の川』より引用

 その後、平川の流路は、太田道灌により江戸前島の付け根を横断する流路へと付け替えられ、河口も江戸前島東岸に移された。この流路が、現在の日本橋川のもとになったと考えられる*1)(図2-1)。この工事の結果、江戸城と江戸前島とが陸続きになり、江戸湊(江戸前島海岸線の総称)の範囲が拡大されることとなった。そして、旧平川河口部の洪水防止、日比谷入江への土砂流入防止がなされ、流路変更された旧平川河床は江戸城外堀へと転用された。

 こうして江戸の町は、太田道灌による整備のため繁栄したが、道灌の死後さびれ、徳川家康の江戸入府の頃には再び東国の寒村に逆戻りしていた。

2)徳川家康入城の頃の江戸

 江戸の町は、1590(天正15)年の徳川家康江戸入府以降に、本格的な町づくりが開始された。この頃の江戸城城郭は、大変貧弱なものであった。また、江戸城下の低地部分は、低湿地や沼沢地であり、あまり居住条件の良いところではなかった。このように東国の一つの寒村に過ぎなかった江戸の町は、徳川家康から家綱までの4代、約70年にわたる都市建設・整備がなされ、世界有数の大都市に発展していくのである。

 城郭整備に先行しておこなわれた水路整備は、江戸前島東岸の平川河口と日比谷入江最奥部とを結ぶ運河(道三堀)の開削と、平川河口の隅田川川岸への延長工事、江東地区での小名木川の開削である(図2-2)。

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図2-2 徳川期最初の水路工事(1590〜1592年)
資料:鈴木理夫『江戸の川・東京の川』より作成

 これらの整備により、江戸前島東岸部の陸化防止がなされ、江戸前島は、東岸部の商業港と西岸部の軍港と機能別に分けられた。そして、小名木川は塩の産地であった行徳と江戸城城下を結ぶ、安定した輸送のできる水路となった。また、この頃、最初の都市施設として、市街地への上水道確保のための牛ヶ淵・千鳥ヶ淵が建設された。

 このように都市建設の一環として整備された江戸市街の水路は、防御のための堀割だけではなく、この大都市を維持するための物資の輸送路でもあった。また、水路と深い繋がりの持つ江戸湊の整備も必要不可欠であった。すなわち、近世前半における江戸市街の整備は、「江戸の水系の大幅な変更と運河網の造成」*2)を中心としたものであったと言えよう。

3)日比谷入江の埋め立て

 1603(慶長8)年に江戸幕府が開かれ、江戸の町は日本の政治の中心地として大きな役割を果たすことになった。これにより、幕府は諸大名や旗本などの宅地を確保せねばならなかった。また、国際貿易の盛んな時期に入り、日比谷入江の存在は、江戸城直下まで外国船の侵入を許すことになり、防衛上不都合が生じてきた。

 このような状況の下、需要の増加した大名・旗本の宅地を造成するため、また江戸城を外国船の艦砲射撃から守るために、幕府は日比谷入江の埋立をおこなった(図2-3)。そして、江戸湊は江戸前島東岸の一部に限定されたのである(図2-3 a-b間)。しかしながら、江戸湊は、江戸前島東岸に河口を持つ平川・旧石神井川からの土砂の流入・堆積の影響を受けることとなった。この影響は、江戸湊の発展にとって障害となってしまうものであり、河川利用という利点をも上回ってしまった。

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図2-3 日比谷入江の埋め立て(1606〜1607年)
資料:図2-2に同じ

 この対策として、平川・旧石神井川河口の改修がおこなわれ、あわせて、旧石神井川の河口部を廃し*3)、神田川下流部の原型(原神田川とする)への付け替えがおこなわれた(図2-3)。こうした対策により、江戸湊への土砂流入は改善された。

4)江戸前島の改造と江戸城城郭整備

 1607〜06(慶長11〜12)年の江戸城外郭工事では、江戸の町にとって重要な運河(外濠)と道(東海道)が江戸前島に通された。外濠は、呉服橋から新橋に至るものであり、江戸城の東側の外郭線を決定し、1952(昭和27)年に埋め立てるまでの約340年間、江戸〜東京の町の経済上重要な運河として利用されていた。この時、平川も江戸城の外濠としての役割を強化されている。

 それまで日比谷入江を回り込むように通っていた東海道は、1603(慶長8)年に架けられた日本橋を起点として、江戸前島の外濠と江戸湊の中間に付け替えられた。この通りは、現在の銀座・日本橋通りにあたるものである。これらと同時期に、新たな水源地として赤坂溜池が設けられた。さらに、江戸湊の整備もおこなわれ、櫛形の埠頭が建設された。

 続いて、1611〜14(慶長16〜19)年には、江戸城西丸の整備と西丸下の造成がおこなわれ、江戸城内郭を構成する内濠(和田倉門〜馬場先門〜日比谷門〜山下門)は、この時開削された(図2-4)

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図2-4 内濠の開削
資料:図2-2に同じ

 このころ、江戸城北側の外郭である平川周辺(雉子橋〜一ツ橋〜神田橋)は、蔵地(倉庫)として徳川氏の歳入米や諸々の物資の集積地となっていた。このことは、和田倉門が初期の江戸城荷揚げ場兼蔵地であったのに対応したものである。平川の蔵地のうち、米の蔵地は1620(元和6)に浅草米蔵として隅田川右岸に移された。

5)平川の大改修

 平川は、沿岸の蔵地を洪水から守るため、また徳川家家臣の駿河からの江戸転勤にともなう宅地造成のため、大改修工事をうけることとなった。さらに、1619(元和5)年の菱垣廻船制度にみられる日本全国規模での流通の活発化により、幕府は江戸市街・江戸城をさらに拡大する必要にもせまられていた。

 こうして平川改修工事は、1620(元和6)年に着手された。工事概要は、(1)平川と小石川が合流していた小川町(現、千代田区三崎町・神保町・一ツ橋)付近の宅地化のため、平川の三崎橋から神田山を横断し、以前に開かれていた原神田川へと至る水路を開削する。(2)小石川の流路をほぼ直角に曲げ、直接隅田川と結ぶ。(3)(1)・(2)と同時に、平川の三崎橋〜九段掘留間(現、南掘留橋)間を埋め立てて平川を分断し、(1)で新たに開削した水路から神田川へ通す、というようなものであった(図2-5)。

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図2-5 平川の付け替え工事(1620年工事)
資料:図2-2に同じ

 こうして完成された堀割により、江戸城の外郭線は拡大・確定された。そして、神田山は本郷台から切り離され、徳川家家臣の居住地となり、駿河台と呼ばれるようになった。さらに、平川下流部の洪水がなくなり、土砂流入による江戸湊の埋没が防止された。なお、この工事により埋め立てられた平川の三崎橋〜九段掘留間は、1903(明治36)年に現在のような水路として復活した。

6)江戸城郭の完成

 1636(寛永13)年には、江戸城の総仕上げともいえる外郭工事がおこなわれた(図2-6)。

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図2-6 江戸城外郭工事の完成
資料:図2-2より引用

 この工事により、江戸城の外郭は、牛込〜市ヶ谷〜四谷〜赤坂に連なる濠が開かれ、元和の工事により作られた神田川と結ぶことで、ひとまわり大きくなった。そして、浅草橋門や小石川門などの諸口が設けられ、俗に「三十六見附」ともいわれる見附制度も整備された。

 こうして完成した江戸城の外郭は、隅田川の大橋(両国橋)際の浅草橋門からはじまり、左回りの渦巻き状で小石川門〜四谷門〜赤坂門〜虎ノ門〜山下門〜常盤橋門〜神田橋門を経て、雉子橋門で内郭に接続するものであった。このうちの常盤橋門〜雉子橋門間は、日本橋川の流路を利用したものである。日本橋川のこの区間を外濠川と呼ぶことがあるのは、このためである。

7)河岸の発達

 江戸の町は、城郭整備による濠(水路)が張り巡らされ、さながら水の都というようであった。これらの水路は、江戸の経済を支える大動脈として利用されていた。水路の両岸には、物資の発進地別や商品別による河岸が数多く立地していた(図2-7)。そして、河岸の背後には、倉庫街や問屋街・市場など流通機能が集中していた。

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図2-7 江戸の河岸地
資料:図2-2に同じ

 日本橋川沿岸にも、いくつかの河岸があった(図2-8)。なかでも有名なのが魚河岸である。狭義の解釈では、魚河岸は日本橋川北岸の日本橋北詰から江戸橋に架けての河岸のことを指していた。しかし、江戸市街の発達とともに市場の範囲も拡大し、その範囲は現在の日本橋室町・本町あたりまで広がっていた。

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図2-8 日本橋川沿岸の河岸地と消失水面
筆者作成

 魚河岸の起源は、森九右衛門がこの地に魚屋を出店したことにはじまるといわれている。九右衛門の父、森孫右衛門ら一族は、江戸の漁業発展のため、摂津国西成郡佃村から江戸へと移住させられたのである*4)。彼らは江戸湊で自由に漁業ができる特権を与えられ、獲れた水産物をまず幕府の膳所に納め、その残余を江戸の町で売り出すことを許されていた。そして、九右衛門の店が中心となり、日本橋川沿いには魚を扱う店が増えていき、魚河岸は江戸市街で最も活気のある場所となった。江戸湊で獲れた水産物は魚河岸で陸揚げされ、そこで板船と呼ばれる板の上に並べられ売られていたのである。

 このほかにも日本橋川沿岸には、安房・上総方面からの物資の専用揚場である木更津河岸や、行徳の塩を運ぶ行徳船船用揚場の行徳河岸、神田の町への物資のターミナルとして栄えた鎌倉河岸などが存在していた。このように日本橋川は、江戸の待ちの運河網の一部分として、重要な役割を果たしていた。

注および参考文献

*1) 平川の河口に関しては諸説あるが、本稿では、鈴木理夫(1989)『江戸の川・東京の川』井上書院 に従う。
*2) 前掲*1)305頁。
*3)河口の一部は、東堀留川として残った。
*4)のちの1644(正保元)年に森孫右衛門らは、佃島を拝領し、ここに定住した。

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